目を覚ませとよぶ声が聞こえ…

歴史とかゲームとか本とかそんなものの覚え書き

直江兼続奸臣説3 追記

2008-07-27 21:07:38 | 直江兼続
直江夫妻の墓は林泉寺に移したが、位牌は与板組が真福寺に移した。林泉寺の檀家になることを嫌った?なれなかった?与板衆がそこを菩提寺として、命日に法要を行ったといわれている。

上杉鷹山が「直江夫妻の法要を営まずは人情にあらず」と言ったとされていることからか、藩をあげての法要はなかった、与板組でほそぼそと法要を行っていた、これが藩内で奸臣と見られていた証拠じゃないかという人もいるみたいだが、そんなことはなく綱勝の時代に藩をあげての33回忌の法要が営まれ、院殿号の追諡があった100回忌は吉憲の時代に、150回忌、200回忌が鷹山によって営まれている。(綱憲の時代にあるはずの50回忌はわからない。)上杉鷹山によって奸臣直江が再評価されたというのは鷹山を持ち上げるレトリックで実際は吉憲が元禄期に落ちた地位を戻し、再評価したのである。もちろん鷹山も兼続の政策をおおいに参考して、藩の殖産興業に成功したと言われていることからも、先の言葉からも彼がきちんと評価していたことは疑いがないと思う。

ちなみに宰配頭の平林正興(平林正恒の子)が真福寺住職と喧嘩し、東源寺の檀家となりそれに伴い直江夫妻の位牌も東源寺に移し法要を続けたという。
東源寺は兼続の母の実家といわれる泉氏(尾崎家)が文明八年(1476)信州水内郡泉郷に創建、後米沢に移した寺院。

Comment
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直江兼続奸臣説2 菩提寺徳昌寺の破却

2008-07-27 15:02:06 | 直江兼続
不思議に思うのである。

直江家の菩提寺、徳昌寺は文明十一年(1479)直江秀綱(法名昌山一徳、直江景綱の祖父といわれている)によって与板城下に創建された曹洞宗の寺院、林泉寺は明応五年(1496)越後高田に長尾能景によって建立された、長尾・上杉の菩提寺。
確かに徳昌寺の方が創建は早いが、林泉寺は最初から主家筋の寺院である。それに対し禄所争いなどするだろうか?

この禄所争いといわれている事件は寛永十八年(1641)の出来事である。

徳昌寺は寛永八年(1631)の分限帳に塩井に百石の知行を賜っている。越後時代の文禄三年上納員数目録(1594)では七十一石三斗三升の寺領な事を見ると、この時点ではたいそうな厚遇ぶりではないか。
ちなみに兼続は元和五年(1619)に、景勝は元和九年(1623)、お船は寛永十四年(1637)に死去している。

次の年には白鷹町の瑞竜院、伊達氏によって建てられた末寺五百に及ぶという古刹(新庄藩の戸沢氏の菩提寺は白鷹町の瑞竜院の末寺、由緒あるのだ)に禄所争いが起き林泉寺が勝っている。

はじめから定勝はつぶすつもりで仕掛けた罠ではないのか。

直江時代の栄光が忘れられず結束する与板衆、伊達時代からそこに住み伊達こそ主家と思っているような檀家や住人。象徴を破壊することで、誰が主人かわからせる手法なのではと思う。

この徳昌寺の破却が、直江が定勝に嫌われていたとか、直江批判の一端だというような言われ方をすることがあるが、そうだとは思えない。そのような理由ならば母のように慕っていたと言われるお船の墓を破却してまで死後20年もたってからやるという方が変だ。

直江夫妻の墓を長尾・上杉の菩提寺に移した。このことの方が大事なのではと思う。与板の管理から藩の管理に変える。直江夫妻を林泉寺(身内)にいれることで、与板衆の主人は上杉なのだ宣言したのだと思う。

問題は与板衆が直江死後20年経っても直江麾下という独立意識を持っていたことにあるのではないか。そのことによって対与板への藩内の反感が徳昌寺を破却せねばならないほど強くなっていったからではないか。

米沢の最初の奉行は、直江被官の棟梁といわれた春日元忠、春日が退いた後は、直江に算勘の才を見いだされ、18才の時に伏見舟入普請で抜擢、活躍した平林正恒、平林は直江死後もそのまま奉行を続けているのだ。
普通執政が変われば人事も一新されるべきだとも思うが、景勝が直江体制を望んでいたのかもしれない。実際景勝は定勝に「山城守相果て候ても、大小の事ども後室へあい計らい候よし。」(米沢雑事記)と遺言したそうだ。直江夫妻と景勝の間でこれからの藩のヴィジョンを話し合っていたのだろうか。
平林の次はそれこそ直江家の身内志駄義秀が奉行になっている。志駄が奉行になったのが元和八年。景勝存命中のことだ。翌年景勝死去、定勝が藩主になるも奉行の交代はなく続投。志駄はお船の甥にあたる。夏戸城主志駄義時にお船の姉が嫁いでいる。義時川中島で戦死。19才であった。家督をついだ義秀はまだ2才だったので祖父春義が後見するも2年後に死亡。孤児になった義秀は母方の直江家で養育されたのでお船にとって義秀は弟に近いのかもしれない。ちなみに義秀は兼続と同じ年だ。定勝は後室へあい計らったのか。寛永九年(1632)息子義繁に交代するも寛永十年義繁罷免。この年迄与板系が奉行になっているのだ。

景勝が置いた奉行である義秀までは藩内の支持があったのかもしれないが、息子へ継承となるとどこまで独占する気だ与板衆みたいな感情が起こっても不思議なく思える。直江死後まで数々の特権を受けたきた与板衆と特権を受けるべきは我らだと思っている侍組の間で確執が起こってきていたのではないか。直江独裁の下、実践を積んできていて実際使える人材が多く、いまだ郡代、代官、奉行職などにつく事が多いとなれば、侍組や他の三手組の反発も強いだろう。与板組VS他組の抗争があったのではと考える。

このあとの奉行は寛永十年(1633)清野長範、島津忠利。清野は景勝の小姓後に取次ぎで、涅槃であおう(意訳)とまで言われた景勝の超寵臣。島津は直江執政下の会津三奉行の一人だった岩井信能の子、二人とも定勝腹心といえるかどうかわからないが、とりあえずここから直江体制から定勝体制に移行していくのがみえる。景勝死後から十年、定勝がこの間なにもしなかったかというとそんなことはないので、政治体制の整備がちゃんと図られている。「中之間」の新設、(中之間は定勝の近侍がつとめるところ、中之間年寄りは藩の重要な評議に参画する要職)、奉行・郡代の複数制(例:筆頭家老 志駄義秀、家老広居出雲)寛永十二年には奉行三人制になる。合議制による支配を目指していたのが見て取れる。

寛永三年(1626)侍組(上級家臣)・三手組(中級家臣)の礼席を制定する。家臣の格、序列をきめたということ。侍組、馬廻組、五十騎組、与板組の順。与板は一番下なのだ。

寛永十五年に領内総検地が行われた。結果、表高三十万石に対し実高五十一万七千石余だったという。(半知後も表高十五万石に対し二十八万石余)直江体制が順調にいっていた証拠でもあり、そのようなことから交代のタイミングを計りにくかったのではないか、あるいはお船への配慮(これが大きそうだ)もあるかもしれない。
定勝も独自の政治体制を確立するために様々な改革を進めていたことが判るが、側近を中枢に置くことがなかなかできなかった。
それが完全定勝体制で固めることを引き延ばしていた、もしくはすることができなかった原因ではないだろうか。


カリスマ謙信の後の景勝を見ると、御舘の乱で反景勝派の一掃に成功、勝利した城には上田衆をいれ(例:樋口兼豊に直峯城、佐藤甚助忠久、宮島三河守に栃尾城、登坂が養子に行った先の甘粕近江守に三条城、笹岡城には今井源右衛門久家など)、味方した大身の家臣に上田衆の若者を養子に入れる政策(例:樋口与六の直江家に婿養子、弟樋口実頼の小国家養子、甘粕へ登坂加賀守の長男、)、戦死などでまだ子供が幼い大身領主などの後見を積極的に見ることで、取り込んでいくなどのやりかたでポイントを上田衆で固めていく。
景勝の側近中の側近兼続は、18歳の時の御舘の乱で公式(資料)デビュー、景勝が藩主になると取り次ぎに。21歳で直江家に婿養子に入り家老に、そのまま政治の中枢にすわる。
景勝は腹心を政治の中心にすえるまで一年とかけていない。

織田クライシス(新発田の乱含)や豊臣大名になったことなどによるのか謙信時代よりも中央集権化に成功し、阿賀北衆などの国人衆を含め家臣団はより一体化している様に見える。上条正繁の出奔以外に表だった反抗は見られない。

新藩主定勝にとって家臣団の統制、把握は急務であったと思う。直江体制からの脱却に時間のかかりすぎた結果が徳昌寺の破却に繋がったのではないか。

破却は藩内の家臣掌握の課程の一つであったのだと思う。
Comments (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする