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縁的世界 謙信と古志長尾Ⅱ

2009-11-06 16:42:24 | 直江兼続
に上田長尾が大きくなったのは永正の乱後上杉顕定の死により上田庄の所領、郡司権の再編が行われたからではないかとしたのだが(例えば木六に居を構えていた尻高氏は滅亡したか上州に逃げたかで樺野沢以南が手に入り、藪神、広瀬、小平尾あたりの発智氏、穴沢氏、桜井氏などを与力もしくは被官化したなど)古志長尾はどうだったのだろう。

文明15~18年(1483~1486年)の長尾・飯沼氏等知行検地帳、明応6年(1497年)の越後検地での古志郡の所領を見ると国衙領、摂関家領、寺社領を除けば府内長尾氏(長尾能景)、飯沼氏(飯沼遠江守、飯沼弾正左衛門定頼)それに古志長尾家(長尾豊前守孝景)分とそれぞれの被官の領地が主で、あちこちに点在していた。検地は古志郡司、蔵王堂城主長尾孝景(明応6年の検地は、明応4年に息子房景(丸)に家督を譲っているが幼い為彼が代行したと思われる)が行っている。

古志は中世初期に東古志、西古志(三島郡)にわかれたという。三島郡の荘園は白鳥荘、吉河荘、大積保。東古志の荘園は大島荘、越路荘、志度野岐(糙脱、褥抜)荘、高波保。三島郡は与板城主飯沼氏の勢力圏だが、文明年間上杉房定の時代、長尾孝景が古志郡司の頃は、白鳥荘の段銭を京に為替で送ったり、京都随心院とのもめ事に関わったりしているので、所有領地はともかく古志郡全部の郡司だったと見て良いのではないか。

守護が上杉房能に変わり房景が家督を継いだ頃、房能が守護権強化を試み、国人領主に対して明応6年(1497年)に検地を行い、同7年3月に「国中の御内・外様が近頃“郡司不入“と称して守護の命に背き、守護の任命した役人の職権行使を妨げているのは、まことにけしからぬことだ。不入の証文のない土地は、三ヵ条に違反する者があったならば、郡司が成敗する。役人の不正は直接申し出よ」とした政令を布告した。(井上鋭夫氏著上杉謙信より引用)
これに対した能景は古志郡司長尾丸に書を送っている。
「能景分は先祖以来七郡の代官を務めたから、ほかの人とちがい、「不入」の書類はあり、とやかく言われることはない。そこで所領を直接支配してもよいのだが、殿様が掟を色々と申しのがれる者が、のちに現れることをよく考慮せよと言われるので、御諚ごもっともであると申し上げた。従って能景領所と被官の給地は、三ヵ条違反の場合はあなたによって守護権を行使して頂きたい。しかし三島郡大島庄のことは、あなたもお若いことですので私が処置します。」(同引用)

この手紙の最後の部分「お若い事ですし」で三島郡と大島庄の郡司権を取り上げられてしまっている。三島郡は守護上杉の家臣奉行衆が多いので有りかなとは思うが、大島には古志長尾の領地、先祖代々の本拠地蔵王堂があるのにである。

上杉房能の守護権強化政策によって、役人である古志の権力強化が図られること、あるいはその権力強化で古志自体も強くなり、府内と本貫の地三条と分断されることを嫌ったということもあるかもしれない。だが真の目的は蔵王堂そのものを取り上げることにあったのではないか。府内長尾の所領が多くある大島は信濃川の船運で発展した地域である。その中心である蔵王堂は是非欲しい場所だったのちがいない。金と人の集まる場所に権力を与えるほど長尾能景は人が良くはなかった。
大島の郡司権を奪うことやなんやかんやwで蔵王堂城も取り上げてしまったのだと思う。「大島をこちらで処置します。」は蔵王堂も処置できるということで。幼いを理由にしていた能景だが、丸の元服を機に能景は栖吉の地を代替として安堵したのではないだろうか。(弥四郎房景宛 永正元年9月27日の長尾能景安堵状・同年10月13日の長尾能景書状:上杉房能母の芳賀大方の命により「普済寺領栖吉」が古志長尾房景に与えられ,寺の維持・管理が命じられている。)永正年間に築城、家臣達も皆祗候したという記録がある。(只見助頼書状)

さて永正の乱である。
永正3年越中で長尾能景死去。守護代を長尾為景が継ぎ永正4年守護房能の婿養子定実を擁立し房能を松之山で自刃させた。
永正4年定実より長尾房景に「古志郡志度野岐庄石坂内松井法眼分,同郡同庄石坂内市川孫左衛門尉分」が宛行われる。ちなみに房景は為景が執り行った房能の仏事に御香料百疋を上げている。 

永正6年関東管領上杉顕定が弟房能の仇討ちと越後の安定と所領確保のため、越後へ侵攻。
房景は顕定側につき、ここぞとばかりに蔵王堂を攻撃している。永正7年6月12日の上杉顕定書状案(新集古案)で「去六日蔵王堂に於いて弥四郎(房景)が六郎(為景)方の被官・宗徒と合戦し100余人を討ち取った云々」と長尾但馬守(景長)宛に出している。
これを見ても栖吉移転は古志長尾の意志ではなく守護代長尾によってしくまれたとするのが妥当のように思える。
顕定が越後に来て一年、御味方の越後国人衆にそっぽを向かれ始める。上田の長尾房長、我らの古志長尾房景も為景に応じ、顕定は長森原で討ち取られた。

上田長尾はもともと関東管領の被官であるし、上田庄の郡司であったから主人でなくなった顕定の所領の制圧は有る意味必然のように思われるが、古志長尾は越後守護の被官であるから、房能、顕定の死、その後の定実が傀儡でいることに抵抗した永正10年の抗争でそれに殉じたと思われる飯沼氏の所領や平子氏の所領があいたとしても為景と傀儡新守護定実の宛行なくしては直領にはならないわけで。ここから古志長尾は為景の盟友となってゆく。

定実、宇佐美房忠の永正10年の戦い、その中でも特に上田合戦での戦功はめざましく、為景より言葉を尽くした感状をだされているし、その後、永正16年より始まった越中戦に為景より請われ参戦し、新庄戦では身内、家臣を大勢失うと言う激戦を勝ち抜いた。当然恩賞も大きく安堵された領地も広大になっていった。房景の時代に南は小千谷の一部である荷頃、山古志、北は栃尾、見附の一部の名木野あたりまで領地を広げ、それに付随してそこの小豪族や近隣の一揆勢などが家臣となっていったといわれている。

房景の父である孝景が古志を嗣いだとき、勢力拡大をはかったとして房定に「御料所御恩之地所々事、方々相分候之由、内々被聞召候、不可然候、所詮、如故備州之時可有支配之由、云々」と注意を受けている。

このように越後守護の被官だった古志長尾は、この房景の代、永正の乱や越中戦をへることで守護の被官としての位置がうやむやになり、為景と結びつくことによって、大身の国人領主となっていったと見てよいのではないだろうか。

房景の名が資料に見えなくなってくる頃かわって登場するのが越ノ十郎こと長尾景信である。享禄四年一月の「越後衆連判軍陣壁書」に十郎と言う名のみ(花押はない)で署名している。

文明末年の「長尾・飯沼氏等知行検地帳」をざーと見ていくと長尾孝景とは別に古志ノ六郎右衛門と言う名が記載されている。

景信という名から嫡男ではないと思ってはいたが、房景の子だと考えていた。彼がわざわざ越ノとか古志ノとか冠されるているのを見るとこちらの分家の子なのかもしれない。孝景の兄弟なのか、叔父さんなのか、それとももっと前に分かれた分家かはわからないが古志家であることは間違いないだろう。
この六郎右衛門氏の検地帳の所領が楡原、栃堀と書かれているので、栃尾城主であったと見ることができるのではないか。もし景信がこの分家の子だとしたら、謙信がなぜ栖吉城ではなく栃尾城にはいったのかおぼろげながら輪郭が見える気がする。


この軍陣壁書ができた享禄4年に十郎の名がでて以来謙信の栃尾入城まで古志長尾の名はほとんどみられない。上条上杉定憲の越後享禄天文の乱で為景方として活躍しているのは北条、安田など柏崎の毛利一族ぐらいだ。徐々に為景側は追い詰められ、天文6年(1536年)為景は晴景にバトンを渡す。

この頃古志長尾はどうなっていたのだろうか。
実力者、房景の死は一代で広げた家臣団の統制に難をきたしていたらしい。
古参家臣と新参家臣との間で内部対立があったと伝えられている。

房景は越中新庄戦で多くの同名(長尾姓のもの)、重臣、被官を亡くしたという。
為景は、悲嘆に暮れる房景を早めに国元に返し、感状発給後も嘆き悲しむ房景に叱咤に近いような慰めの手紙を送っている。「今度各討死候、依之愁傷之由承候、更雖無余義候、まけいくさニさへ、合戦のならいハ左様ニ不申候、况勝軍之討死ハ努々なけかさる物ニ候、云々」

この房景の嘆きは、この御同名の中に跡継ぎがいたのではないのかと思わせる。あるいは勝王に請われ長尾備中も出陣していることから(わざわざ房景とは別に畠山側から出陣要請が来ているので、かなり地位が高いはず。豊前守を譲った父孝景が備中を称したのだと踏んでいるのだがどうだろう。ちなみに孝景の父宗景も備中守)彼の人が亡くなったのかもしれないし、その両方かもしれない。

いずれにせよ後世謙信によって河田長親に古志が与えられ、豊前守を称するまで古志の領主の象徴のようなこの官位を持つ者はこの家中のなかで見つけることができない。

房景晩年、栖吉の惣領家から主を出せず、分家から養子を取り十郎に相続させたというのは考えられる範囲のことだと思う。跡継ぎを出せない家は半知領地変えが決まりであったらしいので(例、山吉家)十郎は正式な跡継ぎとしてこの壁書に署名したのだと思う。

だが房景の眷属は栃尾だけではないのではないか。部屋住みの次男三男で家臣となったものがいたかもしれない。

謙信の時代、栖吉衆として現れる長尾姓の者は長尾紀伊守、長尾和泉守、長尾左馬助が資料に見て取れる。和泉守は歴代古案に傳兵衛祖父の注意書きがあり文禄三年定納員数目録には名前がなく、長尾傳兵衛は寛永八年分限帳に現れるので謙信とほぼ同年代ぐらいと見当をつけられるのではないか。紀伊守は上納員数目録や越後分限帳に名があり栖吉衆で筆頭の石高を得ている。謙信からの手紙も紀伊守殿と敬称つきで栖吉の留守居であったと思われる。左馬助は越中中村山城主であったと資料にある。特に紀伊守は群書系図のなかでも最初に書かれており、房景に一番近い血筋なのではないだろうか。謙信は為景の孫でもおかしくない年齢である。彼らも房景の孫ひ孫世代であったろう。

当時跡継ぎになれる年齢の子供は十郎しかいなかったのだとしたら、栃尾の分家が権力を持つことを苦々しく思っていた栖吉の長尾一族がいてもおかしくはない。房景が生きている間は抑えられていたものが、幼子達が成長するにつけ血の正当性を盾に権力を取り戻そうとする動きがあったのではないか。
これが古志に分裂抗争を引き起こしたのではないだろうか。

謙信が来る前の「中郡の乱れ」というのはこの古志の内乱を指すのではないか。
軍記物以外でこの時期中郡で争いがあったという資料にお目にかかっていないし。

新しい権力者栃尾衆と遠ざけられた古参の栖吉衆、絵に描いたような対立構図ではないか。

為景以来の盟友、古志の乱れは脆弱な晴景政権にとっても由々しきこと。新たな火種になりかねないのである。晴景はこの内部抗争に介入し新参家臣を支援したという。謙信が栃尾城に入ったのはこの支援のためではないのか。景信が古志宗主として栖吉城に入り、あいた栃尾城に養子としてはいる。謙信がそこにいることで常に他の家臣に対し景信には府中がついていることを知らしめるために。そして謙信は古志の継承者として府中の権力に同化させる役割を担ったのではないだろうか。母の実家でもあり栖吉と血縁のある謙信は継承者としての納得のいく理由付けにもなる。不服な対立者が幼きを侮って仕掛けてきた者もあるかもしれない。そこであふれる才能を見せつけたとかはありそうだ。

考えてみると良く書かれている古志郡司として中郡を平定したというのはおかしい話だ。古志郡司は古志の警察権を発動できるのであり、全中郡に及ぶものではないはずだ。景信と府中の威をを背負った継承者で郡司権を行使し古志内の不満分子を片付けていったと言うのが本当だろう。

しかし越後の虎となる彼は、そんなものでは収まりきれなかったのである。晴景の要請を受け糸魚川まで進軍し黒田秀忠を降伏させ、再度謀反した黒田を定実の要請を受け自刃せしめる。これら天文14年以降の反乱は対晴景戦であり、古志や謙信をねらったものではない。古志自体平定されていたからこその栃尾衆率いての上郡遠征なのである。これが中条氏や高梨氏などの目にとまり、謙信を担ぎ上げようとする者がでてくる。晴景VS景虎の構図が隠せなくなった天文17年。大見安田や菅名長尾、上田長尾などの晴景についた者たちとの戦いが始まった。昇り龍な勢いの景虎に対し病弱な晴景は謙信に国主の座を譲ろうとしたが謙信は断ったという。しかし定実の仲介により晴景の養子として国主として立つ。謙信にとって古志は実家であり景信は養父(ちち)である。謙信の気持は景信に与えた上杉姓に感じとれると思う。




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