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直江兼続奸臣説

2008-07-22 09:10:11 | 直江兼続
絶賛した南魚沼のHP天地人のなかの決して低くなかった父・樋口惣右衛門の身分のなかで気になる文章があった。

「樋口惣右衛門はなぜ台所廻り柴薪の役に仕立てあげられたのか。」

仕立て上げられたはなんだか人聞きが悪い。

まず仕立てたらしい藩翰譜である。 以下wikiの引用で悪いが、

“元禄15年(1702)成立。元禄13年、甲府藩主の徳川綱豊の命を受けて編纂したという諸大名337家の由来と事績を集録し、系図をつけたもの。”
“藩翰譜の出典だが、折焚柴の記には、諸家の事共、尋ね究めて、と記載があり、伝聞に基づくものであることがわかる。また本文中にも、ある人のいう、一説にいう、などの記述があり、いずれも伝聞調の記述が見られる。他の史料を引用している記述は見られないことから、新井白石が伝聞に基づいて、独自の主観で編纂したものと思われる。明治に出版された藩翰譜の解説には、異本が非常に多く、善本により校正したとある。また、誤字脱字、語法の誤りを是正。家系図においても、寛政重修諸家譜で大幅に修正を加えると、ほとんど改修となってしまうと記載されている。”

甲府藩主の徳川綱豊の命でである。江戸幕府編纂の公文書ではないのが一つ。
幕府編纂の公文書は寛政重修諸家譜である。これは各大名家・旗本から提出させた記録だが、藩翰譜は任意であった。よしんば上杉家がきちんと提出したとしても、このテキストの言うように自分のところの藩士をわざわざ改竄してまで「惣右衛門が軽輩の士として届けられた」というのは疑問である。

薪炭用人は藩翰譜のみ。白石が伝聞で書いたものを俗説として定着してしまったものではないかと思う。現在フィクション扱いの山内一豊の妻の内助の功話も堀尾の手柄横取り説も出典は藩翰譜(講談社で出している現代新書「検証・山内一豊伝説」参照、すごく面白い) 少なくとも新井白石に悪意はない。「我が蔵に兼続が和漢連句百韻あり、その才有し、うたがうべからず」は兼続への白石の評価である。

上杉家内で悪意を持って提出した可能性もなくはない。一国の伝統ある藩がそんなことをと思いたくはないが、藩翰譜の編纂年が元禄13年~15年であることに注目したい。藩主が上杉綱憲の時代だということ。前藩主綱勝が吉良邸から帰った後急死。末期養子の手続きもないままであったため、改易を免れないところであったが、綱勝の義父であった会津の保科正之の支援もあり末期養子として、綱勝の妹の子吉良三郎が当主になるものの騒動の罰として削封、半知15万石となる。

この寛文の削封にはいろいろ噂がついて回る。綱勝毒殺説、吉良三郎を藩主にする為毒を盛ったというもの“寛文4年閏五月朔日綱勝登城の帰途鍛冶橋吉良上野介義央邸で茶を喫したところ同夜半江戸桜田邸で俄に腹痛を催し、夜明方迄に吐瀉すること7,8度に及んだ。”保科は確かに義父であったが、保科の娘は若死にし子もいない。会津とは切れていたはずであるが、彼は奔走してくれた。千坂の削封日記に綱勝の病状経過と保科の素早い対応が記してある。

この一件で吉良、保科と共に後ろ盾になってくれたのが高家畠山である。謙信の時代、景勝、北条の景虎とともに、能登畠山から謙信の養子になった上条政繁の子孫であり、上杉に重きを成していた上条が、直江兼続の台頭から居場所をなくし、出奔してしまうという因縁つきだが、上条はその後徳川に仕え畠山に戻した。上条の息子で景勝の養子となり秀吉の人質として送られた畠山義真は、土井利勝の仲介で和解し、綱勝の後見となる。その子義里の代である。

上杉家重臣達の間にも内紛があったと伝えられている。吉良三郎をおす、江戸家老千坂兵部、執政澤根伊右衛門垣高と、保科正之の子東市正を後嗣とし吉良家の女子を配するという小姓頭福王子信繁の案があったというのだ。保科は家光の異母弟であり東市正を養子にできれば30万石を全うできるというものだった。

それはともかく吉良家の子が藩主綱憲となり、半知になったにも関わらず、保科の意見によって家臣の召し放ちも行わず、しかも新藩主は浪費家であった。外戚吉良家は上杉家の合力を受け暮らしていたがその出費も膨大なものだったという。

上杉家には越後以来蓄えてきた『御囲金』(御貯金)があった。1645年定勝が死去した折、玉金、延金あわせて14、5万両、竿金竿銀が幾百幾千と長持の中に貯えられていて、床が抜けたこともあったほどだという。綱勝の時代、万治元年(1658)綱勝が2000両の借金をした時、このときの御囲金は20万両有ったと伝えられている。半知の試練の時にさえ、極力堪え忍び、6万両の御囲金を残していた。宝永元年次代藩主吉憲が当主になったときは、ほぼ皆無の状態、そればかりか借金が雪だるま式に増えていたのである。

そんな風だったので赤穂浪士によって吉良上野介が殺害されたとの報が家中に伝えられても「面々が内心では上野介を恨んでいた最中の出来事であったから、その知らせをきくや、悲しむ心はなく、むしろいい気味と口に出して言いたい」(米沢雑事記)だったそうだ。


ながなが書いたが、

○半知になり財政難のしわ寄せが藩士にきているのに、藩主親子は贅沢のし放題。
その怒りの矛先を他の誰かに向けさせ悪者にすればよい。「東照宮に逆らい石田三成と共謀して主家を西軍につかせて道を誤らせた奸臣直江」とか。

○直江の台頭によって出奔を余儀なくされた上条正繁の身内である畠山が悪感情を持っていて後見になっているうちに藩に浸透した可能性もなくはない。

○承応三年(1658)京都中村五郎右衛門によって直江状の写しが刊行された。市井にとって御上の悪口ほど面白いものはない。評判をとればとるほど、徳川の機嫌を損ねたくない上杉にとって都合の悪いものだった。奸臣直江を藩をあげて宣言しなければなら無かったのかもしれない。上杉の資料にもそのことが反映され、上杉鷹山がやめさせたというのをどこかで見たことがある。(その資料を見たことがないので正しいのか判らない。)

という可能性も有るとは思うが、藩翰譜の噂話が徳川に楯突く奸臣(orヒーロー)として、奸臣と思う人たちは蔑みを、ヒーローと思う人、関係ない市井の人々は、より自分たちに近い身分を喜び定着していったものではないかと思う。後は新井白石の名前だけで誰も疑うことがなかったのかも、権威に弱い日本人ならあり得ると思う。

独裁に批判は付きものだし、30万石にしてしまったのも事実、それに対する批判は当然あるとは思う。上記の様に元禄期に評価が下がっていった過程も検証してみた。(菩提寺破却の件は思うところ有るので次回に)

それでもこのテキストの「惣右衛門が軽輩の士として届けられた(藩翰譜)のは、兼続への批判の一端を負うかたちの表れといわなければならない。」とか「仕立て上げられた」は自虐の域だと思う。










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