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蕩減の真の意味

「償い」ではなく「赦し」

「クリスマス・キャロル」とキリスト教的「蕩減」の解釈

2024年04月20日 | 資料

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「信仰生活はメシヤがはっきりと分からなければならない」と言いますが、
この中の「メシヤ」にあたるのが「救い」。そして「救い」とは「罪の赦し」です。
罪の赦し」がはっきりと分らなければならないと思います。

それをイエス様が一番分かり易い例え話にして下さったのが、マタイ伝18/21~35「仲間を赦さない僕の譬え」で、既成教会では頻繁に説教テーマに用いられます。

これを元にして映画にもなった小説に「クリスマス・キャロル」があります。

ラスト・シーンで守銭奴と嫌われている金貸しスクルージが自分の罪に気づき、借金で苦しんでいる町中の貧しい人々の借金を「みんな『帳消し』にします!」と宣言します。

それを聞いた町中の人々が大喜びして町中でお祭り騒ぎになります。
この「帳消し」が、韓国語で「蕩減」、即ち「負債の赦し」、「罪の赦し」の譬えです。


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「クリスマス・キャロル」(原題:Scrooge,1970)ラスト・シーン
                          ▼画像クリックで動画起動


●wikipedia
「クリスマス・キャロル」(原題「Scrooge」1970)


     ・*:.。。.:*・゚ キリスト教と統一原理の違い ・*:.。。.:*・

ここまではキリスト教が説く「救い」の素晴らしさですが、では統一原理はそれをどのように凌駕しているのか?と言うと、本来返済不能なくらい莫大な借金がある人が自己破産、会社更生法適用などになると、その借金は「無条件」では赦されません

普通、債権者は債務者の残った資産全てを差し押さえた上で、残りを帳消しにして清算するものです。

そのように、負債総額にはほど遠いとしても、その人が出来得る限りを尽くして捧げることを条件にします。

それが債務者の責任分担です。この部分を明確に説いたのが「統一原理」です。

ところが既成教会は「赦しには条件がある」と言うことを拒みます。それは神は「無条件の愛」故に「無条件の赦し」と説くからです。
よく考えると決して矛盾してないのですが、この点はどうしても譲りません。

因みに「人間の責任分担」の原型を聖書の中から探すとそれがマタイ伝18/21~35です。

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もう一つ、キリスト教と統一教の「蕩減」の解釈の違い。
統一教では「赦し」を受けるために「条件」を立てると言いますが、キリスト教では違います。

クリスマス・キャロルのラストシーンのような救いの喜び、開放感を味わった人にとって、自らも他者に対してそうせずにおれなくなると説きます。
義務感からではなく自主的に喜んでやるのです。

クリスマス・キャロルのスクルージが、救われた喜びに満ち溢れて、町中の人達の負債を赦し、貧しい人々を救わずにはおれなくなるように。

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