「人がどんな時に幸福を感じるか」について、今は大体のところわかっているそうです。
このことを書いているのはマーティン・セリグマンさんという方なのですが、わたし自身は直接本を読んでおりませんので(汗)、「まあ、そういうことらしい☆」くらいな感じでよろしくお願いしますm(_ _)m
①達成
②快楽
③没頭
④良好な人間関係
⑤意味合い
①~④については、そんなに説明いらないような気もしますけれども、⑤については、誰か人に貢献しているなど、自分の人生や行動が意味のあるものだと肯定できる……といったような、そんな感じのことではなかったかと思います。
そして、一般的に言う人の生きる意味というのは――「幸福になるため」と考える方は多いのではないでしょうか。
でも、①~⑤の幸福のうち、<永続的に続く>と感じられることというのは、少ないか、あるいはもしかしたらひとつもないかもしれない……と、誰もがお感じになるのも事実ではないかという気がするんですよね(^^;)
①の達成については、何かひとつ大きなことを達成して達成感とともに幸福感を味わったとしても――それはやがていずれ過ぎ去っていき、再びまた何かの達成感を味わうために大きな山などに登りはじめ、その山も登頂してしまったら、またその次の別の山……といった、何かそんな感じのことかもしれません。
②の快楽は、「あ~、美味しいものを食べた、もうお腹いっぱい☆」と思っても、少し時間が経てばお腹がすくといったようなことですし、何か物を買ってその時は満足しても、少し時間が経つと今度はまた別のものが欲しくなる……といったようなことなのではないでしょうか。
③の没頭は、確かに時間を忘れて何かに没頭できる、そしてそのことが結果として何かの実を見ることが出来る――というのは、わたしもとても大切なことではないかと思います。ようするに、「わたしには<コレ>さえあれば、他のことが全滅で、すべて駄目ダメでも、このわたしの趣味に対する没頭だけは誰にも奪えないィィーっッ!!」といった、そうしたことに類する何か、ということなんですけれども(もちろんこれが趣味ではなく仕事だ、という方もたくさんいらっしゃるに違いありません)。
④の良好な人間関係というのは、個人的に思いますのに、自分の親兄弟や親しい友達や同僚であったとしても……「波がある」というのが普通ではないかと思うんですよね。もちろん、親や兄弟姉妹とそんなに深刻な喧嘩をするというのでもなく、夫婦関係も円満で、こちらも大して喧嘩することもない。友達とも大体そんな感じだ――という方もいらっしゃるとは思うものの、ある時は仲が良く、ある時は喧嘩してまた仲直り……そんな歴史を繰り返して、今ようやくある程度落ち着いたとか、色々な形があるものなのではないでしょうか(^^;)
⑤の意味合いというのは、わたしが思うには①~④のバランスか取れていたとしたら、ある程度自分の人生について肯定し、「自分の人生は意味のある幸福なものだ」と納得できることのような気がします。また、そうした状態にあるということは、ボランティアなどをして人にも何か分け与えることが出来るというくらい、ある程度余裕があるということではないかとも思うんですよね。そして、そうしたことを人に分け与えれば分け与えるほど、それは一方的に減るというよりもどんどん幸福が増えていく……といった、そうした循環が人生に生まれていくということではないかな、と自分的には想像します。
神さまとか死後の天国であるとか、そうしたことを一切抜きにしたとしたら――人間というのは、容姿や人種や民族などに違いはあれども、同じ意識を持つ<ヒト>として、こうした幸福を満たすことを「人生の目的」としていると思います。
また、わたしたちの意識の誕生する前が無のような空っぽの状態であり、死後もその無のような空っぽの状態へ戻るのだとしたら……わたしたちの人生に果たして本質的に意味があるのか、と言えば、そこは意見の分かれるところかもしれません。
そして、こうした「自分の人生は意味のあるものだ」、「いや、意味のある充実したものにしなくてはいけない」と考える<意識>を持つ存在というのは、この地球上に人間と呼ばれる種族だけです。
また、この「意識がある」ということに関して、人間は重大な意味があると考えたいわけですが、脳の暗闇にぽっかりと何か島のように浮かぶこの「意識」というものが、常に幸福に満たされていることが、人の生きる意味である……と、こう考えてくるとちょっと「ん?」といったように違和感を感じませんか?(^^;)
というのも、人の意識といったものが常に幸福で満たされている――まあ、そんなことあるわけがないというか、幸福というのは線の中の点であるってよく言いますよね。つまり、人生というものを線でたとえるとしたら、幸福というのは駅のようにポツリポツリと点のように存在しているものであって、その駅と駅の間の距離が短い連続だという運のいい方もいれば……次の駅までものすごおおおく遠かったという方もいらっしゃったりという、一般に「幸福」というのは人の間でそのように認識されているものだと思います。
わたしも自分がクリスチャンになり、マーリン・キャロザース先生の「良いことも悪いことも、人生のあらゆることにおいて神さまを賛美し、感謝する」という教えのことを学んでいなかったとしたら、一般論として「幸福とはそのようなもの」だといったように考えて終わりだったかもしれません。
ところが、ですね。キリスト教だけではなく、宗教といったものは全般に「死後の生命」といったことを教えており、生きていた頃の行いが「死後の人生」に反映される――といったように教えているものですよね。その点において、キリスト教は真に悔い改めるなら、わたしたちが犯してしまった罪のすべてはイエスさまの十字架の血潮の力によって許される……というところに独自性があって、生きている間に善行を積み上げたから、そのような人は天国へ行けるといった思想ではないわけです。
こうした、「死後の視座」といったところから、自分の今生きている人生を俯瞰して見るということが、「生きている間だけでなく、死んだ後にもわたしたちの意識は存続していく(かもしれない)」という宗教性が生まれるわけですが、この部分は非常に曖昧な領域に属する事柄でもあります(何故なら誰も、死んだあとに死んだあとのことを他の人に教えたりは出来ないからです)。
また、多くの方がお気づきでしょうが、この①~⑤の事柄について、そんなに深く考えたりするような余裕などそもそも一切与えられないという、過酷な国や環境に生まれつく方もおられますし、遺伝的に与えられた肉体の条件だけでなく、本人のせいではないのにまわりの人間関係が最初から劣悪だったという、「運の悪い」条件の下、生きることを強制される方もたくさんいらっしゃると思うんですよね。
けれども、「宗教」というものは、こうした点において、<死後の視座>から見た場合、すべてが平等になるよ……と教えているところがあると思います。イエスさまの至福の教え(真福八端)「心の貧しい人々は幸いです。天国はその人たちのものであるから」という、山上の説教にも一脈通じるものと思いますが、なんと言うのでしょう。究極、この世で最悪の条件下で生き、それでいて唯一イエスさまのことだけに目を留め、イエスさまのことを信じ切って生きた方というのは――この世でいかに不幸であったにせよ、天国では十二分に報いを受けることが出来るのです。
つまり、この現世、今生きている世でいかに報い少なく、「こんなにも幸福がなく、つらいことばかりでなんのために生きているのかわからない」という嘆きと苦しみ、つらさしかないといった方ほど……実は「天国に近い」ということです。
これはもちろん、だから「この世での幸福は少ないほうが良い」とか、そうした話ではまったくなく、ただ、①~⑤について満たされて生きている方でも、「死んだあと、自分は一体どうなるのだろう」と考え、神さまのことを一心に求める方や、「死後の人生のことなどあまり考えたことはないが、幸運にもイエスさまと出会って信じることが出来た」方など、富んでいる人にも貧しい人にも、そうした意味で神さまは平等であられるわけです。
けれど、「稲妻に悪魔(サタン)が打たれて墜ちてきた」というくらいの強い信仰を持ちうる方というのは……人生で相当苦しいところ、つらいところをくぐり抜けて来られた方から出てくる場合のほうが多いだろうとは思うんですよね(^^;)
なんにしても、お話のほうをまとめますと、①~⑤が仮に満たされていたとしても、人というのは不満を覚えるかもしれませんし、「幸福が当たり前すぎてそれを幸福とはすでに感じない」という傾向が出てきたり、さらには「まだ何かが足りない」という不足感に悩まされることさえあるかもしれません。
え~と、でもこう書くからといって、わたしはマーティン・セリグマンさんのポジティヴ理論を否定したいわけでもなんでもなく、むしろ賛成なのです。これから機会があったら本のほうもちゃんと読んでみたいと思っているくらいなのですが、ただ、視点として「この世でいかに不幸であろうとも」、「労し悩みが多かろうとも」、①~⑤についていかに満たされていなかろうとも……イエスさまはそのすべてを贖って余りあるものを与えてくださる方だ、ということを、一クリスチャンの小さな意見として書いておきたいように思ったというそれだけだったりします(^^;)
それではまた~!!
俺は教会でそういわれた
教会に通うのをやめたら地獄に落ちるんですか?
死ね死ね