【天使とヤコブの戦い】ポール・ゴーギャン
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
(ヘブル人への手紙、第12章4節)
>>テレビが見られないと考えることはとても辛いことです。(血を流すほどつらい!)あなたがたの中に、何か神聖な楽しみがあるとするなら、私にとってテレビや、映画がそうでした。だからテレビをあきらめるなんてとんでもないことだったのです。
以前、八歳になる孫娘が私にこう言ったことがあります。「おばあちゃん、おじいちゃんはどうしてテレビばかり見ているの?」私は、それを聞いて無性に腹が立ち、「あの子の母親は孫のしつけをもっときちんとすべきだよ」と思ったものです。それ以来、私は、だれでも自分達の神聖なる楽しみ(それが何であっても)が非難されると腹を立てることが理解できました。デボーションの小冊子の日ごとの糧にも、こう書いてありました。「私たちは悪にのめり込めば込むほど、人のアドバイスにも耳を貸さなくなる」確かに私にぴったりの言葉でした。
神様は、私の楽しみを取り去ろうとしているのではなく、私をむしばんでいるものを取り除き、私をもっと神様の最高の目的のために用いようとしているのが段々分かってきました。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
今回は、第5章「自己との戦い」から学んでいきたいと思うのですが、もちろん神さまはマーリンさんに対し、「すべてのクリスチャンはテレビを見てはいけない」と語られたというわけではないし、マーリンさんはそうしたこと全般について、色々と思い巡らされたようです。
まず、マーリンさん自身がテレビを神さまに捧げるにあたって、「血を流すほどつらい!」と語られているとおり……人は誰しも、マーリンさんにとってのテレビにあたる何かを持っているものなのではないでしょうか。
クリスチャンの方の証しの記事などをお読みしますと、「その頃わたしは野球(あるいはサッカーや剣道やバスケットボール)に夢中になっていて、神さまのことをおろそかにしていました。そして、大好きな野球を捧げるように神さまに語られ……葛藤しましたが、言われたとおりにしたところ、結果としてそれがやはり最善でした」といった記事に遭遇することが時々あります。また、神さまのことよりもスポーツに夢中になっていることを反省し、神さまのことを第一にしたところ、野球の方面でも祝福されることになった、ということもあれば、完全にそのスポーツをやめてしまって牧師を志された方もいらっしゃったりと、人によって神さまがその方に望んでおられる道は様々と思います。
ただ、ノンクリスチャンの方にとってこのことは、理解不能な価値観ではないかと思うんですよね(^^;)
たとえば、神さまがある人にテレビを禁じたり、サッカーを禁じたりするって……普通に考えた場合、「なんやのん、その神さま!」とか、「もしかしてその人、幻聴が聞こえてるのとちゃうのん?」みたいに感じられることかもしれません。
けれども、前回もお書きしましたとおり、あるクリスチャンの方がスマホやパソコンなど、神さまよりも離れがたいものを持つ時……信仰の軸がズレるというのは、実際よくあることだと思います。たとえば、神さまに信頼するよりもお金が大事、預金通帳のほうがよほど信頼できるなど、神さまよりも大切なものがあると(この場合は金銭欲)、そのことがわたしたちと神さまとの間に挟まって、わたしたちと神さまの関係を邪魔するということがよくあります。
マーリンさんも「テレビを捧げる」ということについては、すぐに神さまに聞き従おうという気にはなれなかったらしく(無理ないですよね^^;)、「何故ですか?」、「どうしてダメなのですか?」といった疑問を感じつつ、その「何故」ということを思い巡らすうちに――簡単にまとめて言ったとすれば、次のようなことにマーリンさんは思い至ったと言います。
>>金持ちの家には、金や銀でできたお皿だけではなく、木や土でできたお皿もあります。高価なお皿は、ゲスト用で、安いお皿はキッチンで使われ、しまいにはゴミ箱行きです。もしあなたが、罪から離れるなら、あなたは家の中でもっとも高価な純金でできたお皿のようになるでしょう。そしてイエスさまはあなたを最高の目的のために用いられます。
(テモテへの手紙第二、第2章20~21節/リビングバイブル訳)
神様の家で、どんなことをしたいかを決めるのは、私次第であり、私の決定は、世の中のためばかりではなく、次の世代にも関わってくることです。責任重大ではありませんか。
私の働きは、金や銀にも、木や土にもなりえます。多くのクリスチャンは木や土の働きに該当します。もちろん、木や土にも価値があり、金や銀は別の働きにあたいします。しかし、金や銀の働きは、神様にとって、はるかに役に立つのです。なぜなら、土はどこにでもあり、だれでもそれを見つけ、使うことができるからです。
この聖句をよんでもっとも興味深いと思ったのは、私たちは自分の意志で、罪から離れ、神様のさらに高尚な、聖なる目的のために用いられるかどうかは私たち次第ということでした。神様は、決して強要されるお方ではありません。とは言え、もし私が一時的楽しみのために、神様の特別な御用を永遠に放棄するとしたら、私は本当に愚か者です。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
本の中でのマーリンさんの書き方は違いますが、引退前、マーリンさんの信仰生活というのはおそらく、神さまの目から見て金や銀だったのではないでしょうか。けれども引退後、日曜礼拝は毎週欠かさず奥さまと守られているものの、説教することについては他の人の話を聞く側に回ったほうがいい、また、あとは引退後の生活を楽しもう、神さまには牧師として現役だった頃、あれほどまでに忙しく熱く仕えたのだから……こうした結果、マーリンさんの信仰生活というのは、以前は純金だったものが、土や木といった劣るものになってしまったのではないでしょうか。
そこで神さまはマーリンさんにもう一度以前のように熱く御自身に仕えることをお望みになられたのだと思います。そして、その神さまの正しい道を選んでよかったということが次章以降に語られていくのですが――この章ではまだマーリンさんは葛藤の最中にあり、この章の最後の文章は、次のような言葉で終わっています。
>>それからは、すべてあまりうまく行きませんでした。そして私は居間で隠れてテレビを見ることが出来るから、朽ち行く楽しみを公にして議論することに気乗りしませんでした。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
わたしも経験ありますが、神さまに何かを捧げなさいと聖霊さまを通して語られる時、それがもしギャンブルなどの、自分でも薄々悪いと感じられることでもない限りは――あまりそのことを認めたくないものなんですよね(^^;)
そこで色々と自分に対しても神さまに対しても言い訳をして誤魔化そうとするのですが、現実問題として聖霊さまからの語りかけが止まる、霊的に弱まる……といった信仰の減退現象を通して、やっぱり「理屈はともあれ、神さまのほうが正しいのだ」と認めざるをえない信仰の袋小路というのでしょうか、そうした道を通してへりくだり、神さまの義を讃える以外に道はない、と結局悟ることになるのです。。。
このあたりの価値観というのは、信仰がある程度進んでから体験的に理解していくことなので(クリスチャンとしてこの過程を通らない方はほとんどいないと思います。もし通らなかったとすれば、よほど神さまの御心を語られる前から行っているか、あるいは同じクリスチャンの方でも聖霊を受けていないかのどちらかだと思います)、理解に苦しまれるかもしれませんが、とにかく、最初は訳がわからないながらも、「何故」という問いは横に置いておいて神さまの語られた通りにしてみると……あとからきちんとわかるのです。何故神さまが聖霊さまを通してそのように語られたのか、ということが。
>>終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者…神よりも快楽を愛する者になり
(テモテへの手紙第二、第3章)
この聖書のみことばから、マーリンさんは、自身もまた神さまよりも快楽を愛しているのだろうかと考えたり、他にも自分の霊的無気力について思い巡らされたりもしています。また、テレビ番組の内容が、クリスチャンとして見るのに適切でない内容が随分含まれていることにもマーリンさんは気づいていかれました。
その、日本でもこのあたりのことは以前問題になったことがあると思うのですが――やっぱりアメリカってチャンネルというか、見ることの出来る番組が半端なく多いですよね。わたしも随分前に日本版のニューヨーカーが何かで、>>「子供が不用意に見る可能性のある七~九時といった時間帯に、『彼とのセックスは体がバラバラになるほど良かったわ!』などというセリフが出てくるドラマを普通に流すのはどうなのか』といった議論が掲載されているのを読んだことがあるのですが……まあ、日本だったらこうしたシーンを含むドラマっていうのは九時以降、描写がより濃厚(笑)なものは十時以降とかが多い気がするのですが、「もはやなんでもアリ☆」といった感の強いアメリカでも、こうしたことは議論になるのだなあ……と、以前そんなふうに思った記憶があります。
ただその後、暴力的な描写を含む映像については向こうでも厳しくなったと思うのですが(今ではPG15などとあるので、「グロいのかな?」と思ったらそれほどでもなかったって結構あったりしますよね^^;)、マーリンさんも、こうしたことについて神さまは注意を促したかったのではないかと考えられ、このあたりのことについては他の章でも再び言及されております。
なので、その章でまたこうしたことについては触れたいと思うのですが――とにかく、今回の第5章「自己との戦い」では、マーリンさんは色々なことを神さまの基準によって思い巡らせつつ、まだ葛藤しておられるんですよね(^^;)
そして、次の第6章「選ぶとき」では、言うまでもなくマーリンさんは神さまのおっしゃったことを受け容れることのほうを選ぶ、ということを選んでおられます。
その結果、↑の文章の冒頭に出てきた孫娘のブリジットちゃんに福音を語り、この孫娘さんがイエスさまや天国を信じるということになるのでした!いえ、牧師のおじいさまなのだし、その息子さんや娘さんなども、牧師の子供として育ったのなら、当然自分の子供にもそうした話をしているはず――と思ってしまうものですが、マーリンさんは孫娘のブリジットちゃんや、さらに彼女から天国の話を聞いたエリックくんが天国を信じると言うのを聞いて……心の底から思うのです。神さまのおっしゃるとおりにして良かったと!
さらに、説教のしすぎで喉をお悪くされていたマーリンさんですが、神さまに再び聞き従った時にこの喉の不調も癒され、他にもあった体の悪かった箇所も癒され……聖霊さまにより霊的にパワーアップした結果、神さまのおっしゃったとおり、テレビを見ていた時間を伝道活動などにあてることが出来て良かった、そのことを選べて本当に良かった、神さまありがとう!といったように感謝されるようになっていかれるのでした。
いえ、マーリンさんほどの方でも、「テレビを捧げたくない~!(>_<)」と葛藤されたりしてるって、なんだかわたしのように信仰の薄い人間は、心に本当に強い励ましを受けてしまいます(^^;)
このあたりのことは、本の内容を少し先取りして書いてしまいましたが、次回は第6章「選ぶとき」より、またさらに学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。
(ヘブル人への手紙、第12章4節)
>>テレビが見られないと考えることはとても辛いことです。(血を流すほどつらい!)あなたがたの中に、何か神聖な楽しみがあるとするなら、私にとってテレビや、映画がそうでした。だからテレビをあきらめるなんてとんでもないことだったのです。
以前、八歳になる孫娘が私にこう言ったことがあります。「おばあちゃん、おじいちゃんはどうしてテレビばかり見ているの?」私は、それを聞いて無性に腹が立ち、「あの子の母親は孫のしつけをもっときちんとすべきだよ」と思ったものです。それ以来、私は、だれでも自分達の神聖なる楽しみ(それが何であっても)が非難されると腹を立てることが理解できました。デボーションの小冊子の日ごとの糧にも、こう書いてありました。「私たちは悪にのめり込めば込むほど、人のアドバイスにも耳を貸さなくなる」確かに私にぴったりの言葉でした。
神様は、私の楽しみを取り去ろうとしているのではなく、私をむしばんでいるものを取り除き、私をもっと神様の最高の目的のために用いようとしているのが段々分かってきました。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
今回は、第5章「自己との戦い」から学んでいきたいと思うのですが、もちろん神さまはマーリンさんに対し、「すべてのクリスチャンはテレビを見てはいけない」と語られたというわけではないし、マーリンさんはそうしたこと全般について、色々と思い巡らされたようです。
まず、マーリンさん自身がテレビを神さまに捧げるにあたって、「血を流すほどつらい!」と語られているとおり……人は誰しも、マーリンさんにとってのテレビにあたる何かを持っているものなのではないでしょうか。
クリスチャンの方の証しの記事などをお読みしますと、「その頃わたしは野球(あるいはサッカーや剣道やバスケットボール)に夢中になっていて、神さまのことをおろそかにしていました。そして、大好きな野球を捧げるように神さまに語られ……葛藤しましたが、言われたとおりにしたところ、結果としてそれがやはり最善でした」といった記事に遭遇することが時々あります。また、神さまのことよりもスポーツに夢中になっていることを反省し、神さまのことを第一にしたところ、野球の方面でも祝福されることになった、ということもあれば、完全にそのスポーツをやめてしまって牧師を志された方もいらっしゃったりと、人によって神さまがその方に望んでおられる道は様々と思います。
ただ、ノンクリスチャンの方にとってこのことは、理解不能な価値観ではないかと思うんですよね(^^;)
たとえば、神さまがある人にテレビを禁じたり、サッカーを禁じたりするって……普通に考えた場合、「なんやのん、その神さま!」とか、「もしかしてその人、幻聴が聞こえてるのとちゃうのん?」みたいに感じられることかもしれません。
けれども、前回もお書きしましたとおり、あるクリスチャンの方がスマホやパソコンなど、神さまよりも離れがたいものを持つ時……信仰の軸がズレるというのは、実際よくあることだと思います。たとえば、神さまに信頼するよりもお金が大事、預金通帳のほうがよほど信頼できるなど、神さまよりも大切なものがあると(この場合は金銭欲)、そのことがわたしたちと神さまとの間に挟まって、わたしたちと神さまの関係を邪魔するということがよくあります。
マーリンさんも「テレビを捧げる」ということについては、すぐに神さまに聞き従おうという気にはなれなかったらしく(無理ないですよね^^;)、「何故ですか?」、「どうしてダメなのですか?」といった疑問を感じつつ、その「何故」ということを思い巡らすうちに――簡単にまとめて言ったとすれば、次のようなことにマーリンさんは思い至ったと言います。
>>金持ちの家には、金や銀でできたお皿だけではなく、木や土でできたお皿もあります。高価なお皿は、ゲスト用で、安いお皿はキッチンで使われ、しまいにはゴミ箱行きです。もしあなたが、罪から離れるなら、あなたは家の中でもっとも高価な純金でできたお皿のようになるでしょう。そしてイエスさまはあなたを最高の目的のために用いられます。
(テモテへの手紙第二、第2章20~21節/リビングバイブル訳)
神様の家で、どんなことをしたいかを決めるのは、私次第であり、私の決定は、世の中のためばかりではなく、次の世代にも関わってくることです。責任重大ではありませんか。
私の働きは、金や銀にも、木や土にもなりえます。多くのクリスチャンは木や土の働きに該当します。もちろん、木や土にも価値があり、金や銀は別の働きにあたいします。しかし、金や銀の働きは、神様にとって、はるかに役に立つのです。なぜなら、土はどこにでもあり、だれでもそれを見つけ、使うことができるからです。
この聖句をよんでもっとも興味深いと思ったのは、私たちは自分の意志で、罪から離れ、神様のさらに高尚な、聖なる目的のために用いられるかどうかは私たち次第ということでした。神様は、決して強要されるお方ではありません。とは言え、もし私が一時的楽しみのために、神様の特別な御用を永遠に放棄するとしたら、私は本当に愚か者です。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
本の中でのマーリンさんの書き方は違いますが、引退前、マーリンさんの信仰生活というのはおそらく、神さまの目から見て金や銀だったのではないでしょうか。けれども引退後、日曜礼拝は毎週欠かさず奥さまと守られているものの、説教することについては他の人の話を聞く側に回ったほうがいい、また、あとは引退後の生活を楽しもう、神さまには牧師として現役だった頃、あれほどまでに忙しく熱く仕えたのだから……こうした結果、マーリンさんの信仰生活というのは、以前は純金だったものが、土や木といった劣るものになってしまったのではないでしょうか。
そこで神さまはマーリンさんにもう一度以前のように熱く御自身に仕えることをお望みになられたのだと思います。そして、その神さまの正しい道を選んでよかったということが次章以降に語られていくのですが――この章ではまだマーリンさんは葛藤の最中にあり、この章の最後の文章は、次のような言葉で終わっています。
>>それからは、すべてあまりうまく行きませんでした。そして私は居間で隠れてテレビを見ることが出来るから、朽ち行く楽しみを公にして議論することに気乗りしませんでした。
(『聖なる楽しみ』マーリン・キャロザースさん著/生ける水の川出版より)
わたしも経験ありますが、神さまに何かを捧げなさいと聖霊さまを通して語られる時、それがもしギャンブルなどの、自分でも薄々悪いと感じられることでもない限りは――あまりそのことを認めたくないものなんですよね(^^;)
そこで色々と自分に対しても神さまに対しても言い訳をして誤魔化そうとするのですが、現実問題として聖霊さまからの語りかけが止まる、霊的に弱まる……といった信仰の減退現象を通して、やっぱり「理屈はともあれ、神さまのほうが正しいのだ」と認めざるをえない信仰の袋小路というのでしょうか、そうした道を通してへりくだり、神さまの義を讃える以外に道はない、と結局悟ることになるのです。。。
このあたりの価値観というのは、信仰がある程度進んでから体験的に理解していくことなので(クリスチャンとしてこの過程を通らない方はほとんどいないと思います。もし通らなかったとすれば、よほど神さまの御心を語られる前から行っているか、あるいは同じクリスチャンの方でも聖霊を受けていないかのどちらかだと思います)、理解に苦しまれるかもしれませんが、とにかく、最初は訳がわからないながらも、「何故」という問いは横に置いておいて神さまの語られた通りにしてみると……あとからきちんとわかるのです。何故神さまが聖霊さまを通してそのように語られたのか、ということが。
>>終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに人々は、自分を愛する者…神よりも快楽を愛する者になり
(テモテへの手紙第二、第3章)
この聖書のみことばから、マーリンさんは、自身もまた神さまよりも快楽を愛しているのだろうかと考えたり、他にも自分の霊的無気力について思い巡らされたりもしています。また、テレビ番組の内容が、クリスチャンとして見るのに適切でない内容が随分含まれていることにもマーリンさんは気づいていかれました。
その、日本でもこのあたりのことは以前問題になったことがあると思うのですが――やっぱりアメリカってチャンネルというか、見ることの出来る番組が半端なく多いですよね。わたしも随分前に日本版のニューヨーカーが何かで、>>「子供が不用意に見る可能性のある七~九時といった時間帯に、『彼とのセックスは体がバラバラになるほど良かったわ!』などというセリフが出てくるドラマを普通に流すのはどうなのか』といった議論が掲載されているのを読んだことがあるのですが……まあ、日本だったらこうしたシーンを含むドラマっていうのは九時以降、描写がより濃厚(笑)なものは十時以降とかが多い気がするのですが、「もはやなんでもアリ☆」といった感の強いアメリカでも、こうしたことは議論になるのだなあ……と、以前そんなふうに思った記憶があります。
ただその後、暴力的な描写を含む映像については向こうでも厳しくなったと思うのですが(今ではPG15などとあるので、「グロいのかな?」と思ったらそれほどでもなかったって結構あったりしますよね^^;)、マーリンさんも、こうしたことについて神さまは注意を促したかったのではないかと考えられ、このあたりのことについては他の章でも再び言及されております。
なので、その章でまたこうしたことについては触れたいと思うのですが――とにかく、今回の第5章「自己との戦い」では、マーリンさんは色々なことを神さまの基準によって思い巡らせつつ、まだ葛藤しておられるんですよね(^^;)
そして、次の第6章「選ぶとき」では、言うまでもなくマーリンさんは神さまのおっしゃったことを受け容れることのほうを選ぶ、ということを選んでおられます。
その結果、↑の文章の冒頭に出てきた孫娘のブリジットちゃんに福音を語り、この孫娘さんがイエスさまや天国を信じるということになるのでした!いえ、牧師のおじいさまなのだし、その息子さんや娘さんなども、牧師の子供として育ったのなら、当然自分の子供にもそうした話をしているはず――と思ってしまうものですが、マーリンさんは孫娘のブリジットちゃんや、さらに彼女から天国の話を聞いたエリックくんが天国を信じると言うのを聞いて……心の底から思うのです。神さまのおっしゃるとおりにして良かったと!
さらに、説教のしすぎで喉をお悪くされていたマーリンさんですが、神さまに再び聞き従った時にこの喉の不調も癒され、他にもあった体の悪かった箇所も癒され……聖霊さまにより霊的にパワーアップした結果、神さまのおっしゃったとおり、テレビを見ていた時間を伝道活動などにあてることが出来て良かった、そのことを選べて本当に良かった、神さまありがとう!といったように感謝されるようになっていかれるのでした。
いえ、マーリンさんほどの方でも、「テレビを捧げたくない~!(>_<)」と葛藤されたりしてるって、なんだかわたしのように信仰の薄い人間は、心に本当に強い励ましを受けてしまいます(^^;)
このあたりのことは、本の内容を少し先取りして書いてしまいましたが、次回は第6章「選ぶとき」より、またさらに学んでいきたいと思いますm(_ _)m
それではまた~!!
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