第十三段 父親のこと その3

2008年06月21日 | その他諸々
父親の悪口ばかり書いていると化けて出てこられたら困るがいくらでも書くことがあります。他の兄弟がそこまで書かんでもと言いそうですが遺言のつもりですので思いつくままに。
第二室戸台風は何年だったか昭和37~8年のことと思います。大阪が直撃でした、淀川の運河の堤防から水があふれ見ているまに水がやってきた。まえの駄菓子屋の主人(みんなは河波のいう本名でなく向かえのおっちゃんと呼んでいました)むかえのおっちゃんが“水がでたぞ“とさけぶなり父親はシャツ一枚で外に飛び出していった。それを見ていたむかえのおっちゃんは”ここの先生が飛び出していったよ”とびっくりして我が家にのぞきにきてくれた。水はほどなくそれ以上はあふれなかったのでジェーン台風の時みたいにひどくはなかったです。それからすごすごと親父が帰ってきた、お袋がびっくりしてなにをしているのと詰問すると泳ぐつもりだったと。笑うやら滑稽やらでお話になりませんでした。
これは家族のことなどしらん自分さえよければと逃げ出そうという魂胆だったとおもいます。泳ぐなんて言い訳もいいところです、どこをどのように泳ぐつもりだったのか聞いてみたいものでした。ほんとうの濁流なら泳ぐなんてものでない。プールか海水浴と勘違いするほど耄碌をしていなかったのであれは絶対自分ひとり逃げ出すつもりだったと思います。
父は関西に出てきてあちらこちらに旅行をしており子供の時絵葉書をまとめて一冊の本にしてあったのがこの中に台湾を旅行したのがありました。山口の防府にいたこともあるのかその住所の手紙もありました、満州にも行っています。その台湾旅行のときバスが転覆したらしいです。そのときも自分が最初にバスから出てきたようなことを言っていたことがあるのでまず自分が逃げ出すことしか頭になかったのでは。
横浜から関西に出てくるとき親から遺産かしかるべき金額をもらったのかということが話題になったとき父親はだまっていた、私がすこしもなんにももらっていないのと言っても黙っていた。父親はこのように都合の悪いことは少しも言わない。そのくせ何かあると子供はなにも知らないからという。ご都合主義でした。反対に言いたいことは同じことを繰り返していたようです。野村はけちだ、野村は、野村はと味噌くそに食事のたびにいっていました。
中学のとき寄宿舎に入っていたのか寄宿舎の食事が悪かったとか。そういえばいつもつまさきでヒヨイヒヨイと家の中を歩いていました、横浜にいたとき妹(お喜美さん)があのように歩くのは背が低いので背伸びしていると言ったとかいっていましたがこれは寄宿舎でみんなが勉強しているのにドサドサと歩くと勉強の邪魔になるのでみんながそのようにしていたらしいです。その癖が抜けずにいたようです。
次兄は親父は横浜から追い出されたとよく言っていましたが追い出されたのでなく自分の意志で出てきたと思います。これも母親から聞いたことですが女と別れるときお金をつかったとも言っていました、これは父が癌になり昔を回顧したのかぽつりといったらしいです。卒業してまもないのにそんなに自分のお金があるはずがない。

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