十八段 父親の診療

2008年10月08日 | その他諸々
① 子供が親がしていた歯の治療のことを悪く書くことに抵抗がありますが遺言のつもりですので事実は事実としてとらえてください。
レントゲンもタービンもなかったので必然的に治療は明治、大正、昭和の初期の治療になります、時代についていかなかったためです。
そのため歯を抜いて義歯をいれる治療になります。それも体力的に難しい歯は抜かずに削りその上に義歯をいれておりました、残根上義歯としていけないことではないが。わたしが大学6年生で臨床についていた頃その当時は大学に患者(木全さん)を連れて行き治療をしていたのですが父親が治療をした下の前の歯6本にサンプラ冠をかぶせてあり獅子の歯のようで講師の人がそれを見て驚きどこの歯科医院でしたのと聞く、父親とはいえず困ったことがありました。その患者さんはどのように思ったことでしょう。ちなみにこの木全さんの娘さんはその当時かなりの女優さんで浅茅しのぶさんです、元宝塚のスターで百人一首から名前をもらっているほどでした。この人が治療に来たときひそかに二階に上がり覗き見をしたことがありました。
② 患者を平気に待たしていたですね、二階に患者が待っているのに平気の平左でした。ときにはお腹になにかいれとかないとばかりに治療の途中に下に降りてきて食事をしてお酒を飲んで臭い息でも平気で治療をしていました。上で患者が待っているのだからまわりが早く二階に行くように言っても言えば言うほど強情をはってしまいにまわりもあきらめておりました。家族の者がいらいらさせられ本当に困りものでした。時には寝込んでしまい患者もあまりにながく待たされるので途中で帰ってしまう人もありよくまあこんな歯医者がいたものだといまさらながらあきれかえります。本当に神経が図太かったです。中学のとき友達がおまえとこのおっさんのんびりしているなあというのがいたが反論の仕様がなかったです。
③ いちどこのようなこともありました。母親が市場の帰りある女性から嫌味を言われたと。入れ歯をいれるがまともに対応してくれないと関係ない母親にからんできたらしい。患者も患者であるが父親のことだからシャラクセイとばかりに扱ったのかもしれません。歌舞伎が好きであったので助六の世界に入っていたのかも。入れ歯があたっていたらハグキが赤くなっているのにその患者はなっていなかったと言っていましたがそのときの対応は目に見えるようです。しかし父親の弁護をさせてもらうと確かにくどくこだわる患者さんもおられますので一方的にどちらがどうとはいえません。入れ歯とはこんなものと達観している人は扱いやすいですが。

④ 耳を疑ったこともありました、治療をしていたそばで技工をしていたのですがお金を払うときに父親はお釣りはいるかと言っていた。そのあとこの患者は来なかったですね、とにかく患者を選んでいたようです。へんな治療は手に負えなかったのかも。とにかくあきれることばかりでした。しかし気に入った患者とは世間話をよくしていました。
⑤ 細川さんのおばちゃん(輝ちゃんのお母さん)の入れ歯をいれるがうまく入らなかった時“護がフラスコをたたいたから”と責任を転嫁してきたことがあった、百歩さがってそうだとしても“将軍兵を語らず”で責任を自分が執るべきだろう。義歯を石膏から取り出すときフラスコをたたいてもなんの関係もない。
⑥ 中学のとき親しい友達の親が治療に来たことがありこのときもとらぶって気まずいことがありました。このときの言い訳もあの人はうまく出来すぎていると言ったといっていましたが、やせ我慢もいいかげんにしてくれ。
⑦ このような状態だったので患者が少なくとくに午前中は休診状態だったです、技工士が午前中に仕事を取りに来たときは布団からおきだして寝巻き姿で応対をしていました。電話がなかったので城東区の蒲生まで市電を乗って模型を持って行った事がなんどもありました。
私が記憶にあるかぎりでは午前中に仕事をしていたのを見たことがなかったです。だから歯科医になってから母親は当然親の跡を継ぐように言ったがこれはどうしても聞けなかったです。一年ほどは親の治療のアフタケアーをしましたが。本当は大学に残り歯科矯正学を勉強したかったです。⑧ 保険診療の改正が2年ごとにありそのたびに講習が全国的に行われますがそれも行った事がありませんでした。だから当然請求できるものもしないで損ばかりしていたようです。
⑨ 月に一度の保険の請求の事務をすごく嫌がっていました、言っても仕方がないのに嫌だ嫌だと。毎月同じことを聞かされるまわりはそれこそ苦痛でした。母親はすぐに子供にさせと言っていましたが本人にしか出来ないことです。簡単な表書きぐらいはしましたが中身までは無理でした。嫌なことは絶対にやらない性格でしたがこの保険請求だけはやらざるを得なかったです。
⑩ 税金の申告の時期になるとこれもしなかったですね、昭和30年代は申告の時期になると税務署にいき資料を見せて税務署の人が税額を計算してくれました。(今は税理士に頼っていますが)母親に行かしたりで月に初診は何人ほど来るとか聞かれても母親にはわからないはずなのに。しまいに"護に行かそうか”ととんでもないことを言っていました。他所は節税にあれやこれやとやっているのにこれもいいかげんなものでした。税額が多いのと違うのとこれまた母親が悩んでいました。そのくせ家の主人公は主人公はといっていました。