当然、東北に住むようになってから、ニュースでは毎日のように復興に取り組む人々の姿が取り上げられていた。しかし、盛岡生活では結局、それらは現実的な実感につながることはなく、首都圏にいた頃と同様、傍観者のままで終わってしまった。
やはり現実に直面したのは冬の厳しさであった。家が潰れるほどの積雪こそ見なかったものの、道路では除雪車が雪を掻き分けないと本当に道が通れなくなるほどの降雪を毎日見てきた。通勤路そのものが降雪でホワイトアウトし、通勤で遭難するんじゃないかと思うくらいの場面にも遭遇した。まさに冬の盛岡で実感したのはそこであった。
むしろ、そんな現実にさらされた自分としては、宮古、釜石、久慈と言った三陸沿岸は、確かに復興の中でやたら高い沿岸防災壁を見てきたが、それよりも、盛岡より雪が少なくて、海産物が豊かな土地だ、と言うプラスの面しか見られなかった、と言うのが結論。
やはり、自然災害は評論は難しい。自然に対して否を責めるなんてことはできない。先ほど書いた原発の被害のような「人為的」な災害しか評論てきない。ただ、コロナの話もそうだが、自然災害は我々が個人として体験し得るのは「一生に一回」であっても、100年、1000年の歴史を紐解けば、必ず前例がある。そうした前例を忘れてはいけない、と言うことは言える。だから、COVID-19も、東日本大震災も、陰の巨大組織の陰謀によって人工的に引き起こされたと言う陰謀論には決して屈してはならないのだ、と言うことだけは言える。
やはり現実に直面したのは冬の厳しさであった。家が潰れるほどの積雪こそ見なかったものの、道路では除雪車が雪を掻き分けないと本当に道が通れなくなるほどの降雪を毎日見てきた。通勤路そのものが降雪でホワイトアウトし、通勤で遭難するんじゃないかと思うくらいの場面にも遭遇した。まさに冬の盛岡で実感したのはそこであった。
むしろ、そんな現実にさらされた自分としては、宮古、釜石、久慈と言った三陸沿岸は、確かに復興の中でやたら高い沿岸防災壁を見てきたが、それよりも、盛岡より雪が少なくて、海産物が豊かな土地だ、と言うプラスの面しか見られなかった、と言うのが結論。
やはり、自然災害は評論は難しい。自然に対して否を責めるなんてことはできない。先ほど書いた原発の被害のような「人為的」な災害しか評論てきない。ただ、コロナの話もそうだが、自然災害は我々が個人として体験し得るのは「一生に一回」であっても、100年、1000年の歴史を紐解けば、必ず前例がある。そうした前例を忘れてはいけない、と言うことは言える。だから、COVID-19も、東日本大震災も、陰の巨大組織の陰謀によって人工的に引き起こされたと言う陰謀論には決して屈してはならないのだ、と言うことだけは言える。
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