2022/8 №447 小熊座の好句 高野ムツオ
俳句は時事を詠うに不向きと言われる理由の一つは、盛ることができる情報量が他の詩形式より限られるからである。昨今のコロナウイルス禍でもロシアのウクライナ侵攻でも、短歌より俳句に取り上げられることが少ないように見えるのはそのためである。俳句は時事を詠うことを始めから断念した形式なのだ。誤解を生まないために付け加えれば、俳句は自然を詠う詩だから時事を詠うべきでないと主張しているのでは決してない。むしろ人間の営為である時事に関心を寄せることは、俳句が俳句であるために不可欠でさえあると考えている。
俳句は、時事を詠むのではない。時事の渦中で詠むのである。時事が直接反映されているかどうかは問題ではないのだ。俳句は象徴性や暗喩という最短詩型ゆえの力によって、現代社会という時事と密接に繋がるのである。
信じたき方へぐるぐる金魚たち 阿部ゑみ子
金魚鉢の金魚の生態をそのまま描き出している。だが、金魚には「信じたき」方向など始めから存在しない。居る世界がどこなのかさえもとより知らず。ただ無心夢中に泳ぎまわっているだけだ。つまり「信じたき」は人間世界に重ねた暗喩なのだ。「金魚たち」の「たち」も同様、もともと金魚には「たち」と呼ばれる共同性はない。
この金魚を得体のしれない感染病に不安を募らせる人々と重ね合わせるか、ロシアのウクライナ侵攻に慌てふためくだけの我々自身の姿と読み取るかは読者の自由だ。さらに他のさまざまな場面と照らし合わせることもできる。そして、金魚は金魚のまま眼前を泳いでいる。この二重性を可能にしているところにこそ俳句の力がある。(高野ムツオ)
わがベランダ雑草園に勝手に出て咲くマツバボタン↑じつはムカデも棲まわせているが これも勝手に年々大きくなっているのだ 鉢をどかすとあたふた逃げて隠れるのが憎めなくて?そのままに~🥵 今日の十月桜↓
汗拭うPCRにつづく列/青萄
*️⃣今年のコロナ下の状況を詠んだ句だが↑数ヵ月前なのにすでに懐かしい感じがする 時事句はあっという間に時代に置いていかれる が…詠まないわけには行かない ああそんなこともあったよなーといろいろを思い出す 何らかのよすがとなってくれることもあるのだ
ダンナにはお気に入りの海鮮丼 みそ汁 小芋の煮たの ニンニクのたまり漬け
2024年には福澤諭吉さんが新札に変わる すでに9月から刷っていない ワタシは昨年から銀行でお金を下ろさず できるだけ家にある分の札を使いきるように動いてきた 新札になっても旧札は使えるが 政府はマイナカードにしても前倒しが好きだから油断はできない(笑)
時代が(年寄りにとっては)素晴らしいスピードで切り替わってゆく 到底ついてゆけない やっと理解できた頃にはもう次のフェーズに変わっているのだ ハイパーインフレもよそ事ではないだろう と危惧しているが…