Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/長崎教会巡礼 第1日目

2023-05-07 12:03:43 | 旅行

2023年の記録

3月末からプライベートでドタバタがあり、4月上旬から3年ぶりの訪中が迫る中、長崎行を強行し、4月初旬の教会巡礼の記録。

 

 

安っぽさを感じるものの宝亀教会の青空と白、レンガ色のコントラストは、トップ写真向きの画だ。

 

 

長崎空港に最終便で到着すると選択肢は3つしかない。(レンタカーの営業は終了) 公共交通機関のリムジンバスで長崎、佐世保に向かうか、路線バス最終便で、大村、諫早に向かうかである。迷った挙句、大村駅近くのビジネスホテルに投宿し、翌朝、再びレンタカーを借りるために空港に戻ることにした。(長崎空港は、“出島”になっていて、ホテルもなければ、徒歩で行くホテルもない。同じ出島タイプの北九州空港には、ビジネスホテルがあり便利なのに。)

 

 

水主町(かこまち)教会は、大村の町の中心部に建つ。現教会堂は、1983年(昭和58年)献堂と比較的新しく、観光的要素はなく地域の信徒の祈りの場である。

早朝、ホテルの窓を開けると教会堂が目に飛び込んできた。水主町教会の隣に宿泊していたのである。朝食を買いに行く前に訪問した。教会堂内には、和装のマリア様の肖像画が掲げられていた。

 

 

予定通り、路線バスで空港に戻りレンタカーを借り、一路目的地の平戸へ。長崎空港から佐世保、平戸方面への最速ルートは、高速道路で一旦佐賀に入り佐世保に行くことになる。何とも理不尽に感じるので、今回も高速を1度降りて、一般道で佐世保を経由し、再び高速道に乗る。県下二番目の都市・佐世保は、長崎でなく、福岡を向いているんだろうな。

 

 

平戸は、島嶼部を除くと長崎県の最西端になる。(平戸自身、中心部は島なのだが、本土と平戸大橋で接続している。) クルマだと、よほどの悪天候にならない限り平戸大橋が閉鎖されることはないが、二輪車は、強風で通行禁止になる。

 

 

平戸中心街背後の丘の上に建つ平戸ザビエル記念教会は、前回訪問時、天気が崩れ、雨粒が降る中での撮影だったので、今回のリベンジ巡礼の目玉である。幸い紺碧の空の下、モスグリーンの美しい聖堂を写真に収めることができた。

鉄筋コンクリート造ゴシック様式の教会堂は、1931年(昭和6年)献堂。平戸は、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが三度にわたって布教に訪れた地であることから献堂40周年の1971年(昭和46年)に、聖フランシスコ・ザビエルの像が聖堂の脇に建立されたことから「聖フランシスコ・ザビエル記念聖堂」と呼ばれるようになった。

 

 

宝亀(ほうき)教会は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載が決まった「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する教会の1つであったが、平成の大改修により文化資材の真正性が失われたと見做され、推薦段階で除外された。

1898年(明治31年)建設の木造の主構造に正面の赤煉瓦、両側にはバルコニー風のアーケードが設けられ、扉を兼ねるガラス窓から出られる独特の構造となっている。 2000年(平成12年)に骨組みを残しての大規模な改修工事で、全体が白く塗られた。

白塗りが強いアクセントになっている反面、ちょっと安っぽく感じてしまうのは、僕だけだろうか。

 

 

紐差(ひもさし)教会は、長崎市の旧浦上天主堂が原爆で倒壊して新たに建てられるまでの間、日本で最も大きい教会堂であったとされている。

現在の天主堂は、鉄川与助の設計施工、鉄筋コンクリート造2階建て、1929年(昭和4年)に献堂された。

紐差教会は、地域の中心的な教会であり信徒数も多いことから敷地内も手入れが行き届き、紺碧の空に白壁が映え、とても美しい。

 

 

木ヶ津は、明治以降、外海などから移住してきた人々の子孫が住む集落で、紐差教会までミサに通っていたが、病人や高齢者のために1962年(昭和37年)平戸猶興館高校の古い体育館を移築、改修して、木ヶ津教会となった。

前回の訪問時は、煤けた赤い壁だったが、焦げ茶色に塗り替えられ、落ち着いた雰囲気になっていた。教会は、緑に囲まれ、とても雰囲気が良く、クルマを停めチェアを出して、のんびりと珈琲をすする旅行者がいた。僕も、そのようなのんびり旅がしたいものだ。

 

 

大佐志教会の現聖堂は、1995年 (平成7年)献堂と比較的新しい。歴史的な建造物には、時代を超えてきた風格、重みがある。一方、新しい建造物でも、信仰の場には独特の空気感がある。それは、誰もが感じられるものではないが、汚れた心が洗われる“気”を僕は感じる。

 

 

平戸島南部から一気に北上し、春日の棚田に寄ってみた。一部の田圃には水か張られていたので、数枚写真を撮り、日没に再訪することにした。

 

 

生月島にある山田教会は、長崎県内や周辺各地で数多くの教会建築を手がけた鉄川与助の設計・施工によるロマネスク様式の教会堂である。1912年(大正元年)に献堂、1970年(昭和45年)に改築・一部増築が行われ、現在の形となった。正面をビスケットのような外壁は、1970年の改装で施されたものだろうか。

 

 

生月島北部にある壱部教会の現聖堂は1964(昭和39)年献堂。

生月島は、潜伏キリシタンからカトリックに復帰した信徒が少なく、現在でもカクレキリシタン※の信仰を継続している信者もいる。

※カクレキリシタン:仏教や神道、民俗信仰などとも結びつき、あるいは地元の殉教者に対する尊崇を精神的な拠り所としつつ、キリシタン信仰当時の聖具からなる御神体や殉教者が没した聖地などを主要な信仰対象に変化した信仰で、明治時代以降にキリスト教の信仰が解禁され、再びカトリックの宣教がなされても、改宗に応じず、独自の信仰様式を継承している

 

 

山野教会は、1924年(大正13年)にリブ・ヴォールト天井(こうもり天井)の木造平屋の現聖堂が献堂された。棟梁が黒崎教会の建設にも携わっていたため、聖堂内は黒崎教会と似ている。1979年(昭和54年)に前面が増築され、屋根の上に八角の尖塔が付け加えられた。さらに2000年(平成12年)にも改築され、外壁は板張りではなくなった。

 

 

中野教会は、平戸で250年間潜伏し続けてカトリックとなった信徒が住む集落にある。1871年(明治4年)に7戸が信仰を表明した。コロンバン会の神父の援助を得て1952年(昭和27年)、念願の教会堂ができた。

外壁改修しているため、比較的新しい建造物にも見えるが築後70年である。

 

 

平戸島北部にある上神崎教会は、2014年(平成26年)に3代目新聖堂に建替えられた。六角形の木造のアントニン・レーモンド風の教会で、重厚な梁と柱が特徴である。

 

 

ホテルにチェックインした後に初巡礼となる古江教会に向かう。

古江教会は、古江湾の入口の小富士山の麓の集落にある。1899(明治32)年、リブ・ヴォールト天井(こうもり天井)の木造教会が建てられたが、老朽化は避けられず1990年(平成2年)に新聖堂が献堂された。

 

 

日没を狙って春日の棚田を再訪。前回は、雨天の訪問だった。やはり棚田は、夕景に尽きる。

夕陽は海に向かって右側の稜線に沈んだが、その夕陽の反射が棚田を赤く色づかせた。東シナ海の空は、静かに闇へと推移して行った。

 

 

ホテルの夕食は、簡素なビジネスセット。前回の平戸訪問時は、「旬の地魚が食べられる漁師直営網元の宿」だったので、落差が大きい。ちょっと失敗、よく探すべきだったと反省。

今回のホテルに限らず、全国旅行支援を前提に割引前価格を値上げしているのでは?と思える宿泊施設が散見される。利用者は、地域クーポン券を貰って、昼食、お土産に使っているので、施設、利用者Win-Winといえばその通りなのだが、財源は血税。そのツケは、次世代の全国民負担だからね。

 

 

【メモ】

日本に帰国すると、「モスクワ・クレムリンにドローン攻撃」のニュースが飛び込んできた。ロシアの自作自演か? ロシア国内の反政府勢力の仕業か? ウクライナ政府が関与しているのか? いずれであっても、ドえらいことになったと思ったものの、日本の報道は、僕の感覚からすると、極めて低調。ロシア・ウクライナ戦争が、“遠いい国の日常”になってしまったのだろうか?

偉そうなことを書ける立場ではないが、観光地の激込み話がトップで報道されているのんきな国民にガッカリしている。

 

 

旅は続く