Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

大連の街角から 第1回 /中山広場近代建築群

2023-05-30 19:40:21 | 旅行

2023年の記録

3年ぶりの中国出張、ヘロヘロになりながらも無事大連に戻りホテル周辺を散歩した時の記録。

 

 

大連の中山広場で、日本人に馴染み深いのは、旧大連ヤマトホテル(現・大連賓館)だと思うが、あいにく改装中。改装済で、最も美しいと思う旧横浜正金銀行大連支店(現・中国銀行大連分行)の写真をトップにアップした。

 

 

大連は、今の中国で、最も日本人にやさしい街だと思う。確かに在留日本人の数は上海市が1番だが、上海市全体の人口が多いので、日本人密度とすると、大連が圧倒的だ。もちろん、人口の問題だけでなく、ジャポニカ米や海鮮が豊富な食習慣や豊富な日本語話者(かつては、外国語科目が日本語の公立小学校もあった。) 戦前の不幸な歴史があったにもかかわらず親日都市でもある。

 

 

既述のように三方が海の大連は、海鮮が豊富だ。中国の多くの都市の魚介は、淡水の魚や海老、蟹である。沿岸都市の上海も例外ではない、有名な上海蟹も湖水の蟹だ。

中国のちょっとした食堂、レストランの1階には、生きている食材がならぶので、食材と調理方法を選んでオーダーしなくてはならないのだが、残念ながら僕は、そこまでの語学も知識もない。

 

 

大連日航飯店脇の交差点から中山広場にまっすぐ延びる民生街のビルの谷間には、歴史的建造物がならぶ。

 

 

馬路辺辺は、歴史的建造物を模したイミテーションだと思う。イミテーションは、イミテーションで良いのだが、中国の歴史的建造物の多くが現役バリバリで使用されていることは喜ばしいことだが、風雪に耐えてきた風格が吹っ飛んでしまうほど、外壁を綺麗に補修してしまうところが残念だ。

 

 

帝政ロシアは、ダーリニー(大連)をパリに倣った多心放射状街路を持つ都市として計画した。その中央に配された円形広場はニコライェフスカヤ広場(現・中山広場)と命名され、周囲に市庁舎・郵便局・銀行・集会場・商業取引所などが建設される予定だった。日露戦争、日本軍のダーリニー占領によりその都市計画は、日本に引き継がれ、数々の近代建築が建設された。(大広場と改称) 戦後、1945年に中国人による大連市政府が成立、中山広場と改称され、周囲の建物には公的機関や銀行が入居した。

 

 

民生街を進むと旧横浜正金銀行脇から中山広場に入るが、わかりやすく中山広場1号の旧朝鮮銀行大連支店から紹介していく。

 

 

旧朝鮮銀行大連支店(現・中国工商銀行中山広場支行)は、中村建築事務所の設計・施工によるルネサンス様式の鉄筋煉瓦造3階建として1920年竣工。(住所:中山広場1号)

※朝鮮銀行は日本統治領での中央銀行としての機能を担っていた。

 

 

旧大連民政署(現・遼寧省対外貿易経済合作庁)は、煉瓦造2階建、塔屋付のゴシック様式で、前田松韻(関東都督府民政部土木課)設計、荒川工務局施工により1908年竣工している。日本統治下の大連で最初に建てられた官庁建築でもある。時計塔を持つスタイルはヨーロッパの市庁舎を参考にしたものである。レンガは大連市内の満州煉瓦会社製、石材は山東省産の薄紅色花崗岩を使用している。

1922年より大連警察署の庁舎となり、戦後は大広場警察局と中国海軍後勤部が使用した。

(住所:中山広場2号)

 

旧大連市役所(現・中国工商銀行大連市分行)は、玄関の唐破風など日本建築の意匠が取り入れられており、塔屋のデザインは京都祇園祭の山車をイメージしたとされる。設計者の松室重光は関東都督府土木課の課長で、大連民政署を設計した前田松韻の後任にあたる。松室は京都府技師時代に社寺建築の保存修復にも業績を残しており、建物のデザインにもその見識が反映されている。施工は清水組で、1919年竣工した。戦後も1947年~1950年は大連市人民政府庁舎(市役所相当)として使用され、その後は市政府各部局の分庁舎となった。現在は中国工商銀行大連市分行が使用している。(住所:中山広場5号)

 

 

旧中国銀行大連支店(現・中信銀行中山支行)は、清国大清銀行の大連支店として1910年竣工のルネサンス様式の建築物で、中国人の設計である。中央の塔屋にはフランス風のマンサール屋根を載せている。1912年の中華民国成立に伴い中国銀行へ改称された。戦後は大連市教育局庁舎として使用された。現在は中信銀行中山支行が使用している。(住所:中山広場7号)

 

 

旧横浜正金銀行大連支店は、日本唯一の外国為替管理銀行だった横浜正金銀行の大連支店として1909年に建てられた、3連のバロックドームを持つタイル貼りの建物。基本設計は日本で妻木頼黄が行い、弟子にあたる満鉄技師の太田毅が妻木の図面を元に実質設計を行った。1945年より極東銀行(ソヴィエト連邦)が使用。現在は中国銀行遼寧省分行が置かれている。

(住所:中山広場9号)

 

 

【メモ】

僕は大連に住んだことはないが、毎月出張していた時期もあり友人も多い。

最近亡くなった親戚のおばあちゃんが、瓦房店(最近、大連市に統合された)出身で、旅順の看護学校を卒業しているので、おばあちゃんから大連の話をたくさん聞いた。おばあちゃんは、生粋の日本人だが、終戦で初めて日本に来たので、故郷は、あくまでも中国。

そもそも、僕の祖父は、戦前に軍獣医として、大陸に渡った。祖父が、どんな大志を抱いて大陸に渡り、満州のどこで獣医をしていたかを聞く機会がなかった。何しろ、祖父が生きている頃、まさか僕が中国で仕事することになるなど、これっぽっちも考えていないかったからね。

 

 

旅は続く