Being on the Road ~僕たちは旅の中で生きている~

日常の中にも旅があり、旅の中にも日常がある。僕たちは、いつも旅の途上。

人民中国の残像/上海虹口足球場站界隈

2022-11-25 20:02:50 | 旅行

2005年の記録

瀋陽から上海に戻り、溜まっていた仕事を熟すために1週間ほど滞在した時の記録。

 

 

戦前の旧租界時代の面影を感じる街なみである。

 

 

上海市虹口区より旧日本租界(厳密には共同租界の中の日本人集住エリア)のあるエリアと説明する方が、日本人には馴染みやすいかもしれない。上海市中心城区北部に位置する。

 

 

地鉄3号線虹口足球場站の高架ホームから眺めた風景

 

 

洗濯竿を道路に向かって建物から垂直方向に掛けるのが中国式。これは、広い中国どこに行ってもイスラム地域を除くと共通だと思う。空間を効率的に使っているのか?その彼方にタワーマンションが見えるのが現代の証。

 

 

スローガンの国だけあって、当日は、板書された美しい黒板を見ることも多い。最下段の写真上部には、真っ赤な下着の洗濯物が見える。中国では、赤い下着は、厄除けとされているまである。

 

 

ビリヤードが中国のポピュラーな遊技であることを日本ではあまり知られていない。ただ、このビリヤード台、ちょっと高すぎだよな。

 

 

 

中国人は、写真好きだ。観光地でのスマホ自撮りもだが、本格的なスタジオでの撮影もする。僕の友人は、毎年、夫婦で衣装を借り、撮影してもらい写真集にしている。夫婦で、自慢げにそれを見せてくれるが、“売れない演歌歌手”というのが、僕の正直な感想。

 

 

上海の旧市街に行くと、驚くほど老人が目につく。日本と違って、定年後も働く人は稀で、暖かい日は、日がな一日路上で過ごす人も多いのだろう。

 

 

中国の商店街は、古い建物も実用として使われている。建設当時の意匠を維持、復元するために剥製化されたものは、命が宿っていない。リアル・ナウとして、時には猥雑に使われるの方が、僕は好きだ。

 

 

【回想】

瀋陽から1人で上海に戻った。上海には、長くても半月程度しか滞在したことがなく、住んだこともない。しかし、はじめて中国大陸に降りたった上海に戻ると、何ともホッとする。東北ほど、大男が少なく見おろされることも少ない、声もいくぶん小さい、気温も東北に比較すると暖かいからかもしれないが、やはり、鳥の雛が卵を出て、初めて見た動くものを親と思って後に続くのと同じ習性なのかもしれない。

 

 

【メモ】

最近、友人の話を聞いて、長らくの疑問が解けた。(極めて個人的なメモです。)

 

「なぜ、中国は、2047年の一国二制度終了の期限を待たずに香港を事実上の統合をしたのか?」である。2047年まで待てば、世界からの批判を受けることなく合法的、平和的な統合が実現できるのであるにも関わらず。(台湾の明日を考えるヒントになるかも)

 

中国で生活していると、何となく解ってくるのだが、中国の人(社会)は、あまり先のことなど考えずに、まずやってみる、それで、次どうするかを考えるといった行動をする。中国のローカル企業は、まともに予算を作らない。彼らの言い分は、「計画通りに収入が入るかわからないのに支出を決めてもダメでしょ。」である。確かに一理ある。中国社会では、××一筋より機転が利く人の方が評価される。環境が激変する現代は、中国的思考法に有利かもしれない。日本人からは、近視眼的、その場しのぎで一貫性に欠くと、なるのだけど。

 

閑話休題、まさに香港統合の理屈は、そこにあった。一国二制度の中英共同声明が調印された1984年の中国は、今と比較すると、国力は弱く、英国の提案を受け入れざるを得なかった。しかし、中国は、想定以上に発展し、大国になった。声明の前提が変ったので、機敏に行動したという訳だ。なるほど、と思う反面、「些細な約束でも破れば、嘘つき」になる日本人には、理解できない(理解したくない) 理屈なのである。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/上田、長野

2022-11-20 13:30:22 | 旅行

2022年の記録

10月末、松茸料理を夜行日帰りで、食べに行った時の記録。

 

 

味のある赤レンガの聖救主教会。

 

 

下野市から北関東道、関越道、長野道をほぼ真西に進む。佐久平ハイウェイオアシスで仮眠のあと早朝から散策、その日の深夜に帰宅。

 

 

日本で松茸料理を食べるのは初めて。(中国東方航空の機内食で食べたこがある) なべ、土瓶蒸し、茶碗蒸し、天麩羅、姿焼き、松茸飯・・・・・・・と、ひと通り食した。美味しい、しかし、大枚を払っても、もう一度食べるか?と言われると、一桁も二桁も安いエリンギで、充分満足、つくづく安あがりの男だと思う。

松茸料理・あぜみち山荘は、住所:上田市富士山、ちょっとした山中にある。オーナーの説明によると、元々は松茸を収穫できる山だったが、近年は、とても商売できる量を取ることはできず、近隣の山で収穫したものを仕入れているとのこと。

 

 

上田電鉄別所線は、長野県上田市の上田駅から別所温泉駅までを結ぶ。1920年(大正9年開業の上田温泉電軌を起源に延伸、廃線、合併を経て現在の姿となった。写真は、かつて走っていた側面に丸窓を持つ「丸窓電車」、現在は別所温泉駅に係留。丸窓は上田電鉄を象徴する意匠となっている。

 

 

上田城址公園は、上田城を中心に整備された都市公園であるが、春の桜、秋の紅葉の景勝地となっている。雲一つない青空に黄色、赤色が映える。

 

 

日本聖公会・長野聖救主教会は、1898年(明治31年)に聖別された長野県内唯一最古のレンガ造りの聖堂を持つ。外壁の色褪せ感が、歴史を感じさせる。一方、内部は、壮麗な装いである。

 

 

日暮れ前に長野市街をあとにして、日帰り温泉施設・コトリの湯で、ひと風呂浴び、夕食を摂り帰路へ。

コトリの湯は、単に温泉を楽しむことを目的にした施設ではない。自宅のリビングに寝っ転がるように寛ぐとともに仕事に没頭する書斎の空間もある。もちろん、レストランスペースもあるが、日帰り温泉にある休憩室という名のカラオケ宴会場とは違う。とても気に入ったが、1つ危惧することは、訪問したのは平日。休日になると混雑して、寛げなくなるのではないか? 混雑する程度の来客がないと経営が成立しないのではないか? 最後の危惧は、エコノミック・アニマルならではの心配か (笑)

 

 

【メモ】

イーロン・マスク氏が、Twitter社を買収し、リストラを始めた。約半数の従業員解雇、在宅勤務の禁止、長時間労働の強制、すべて米国内では、合法である。米国企業のすべてが、このような働き方(働かせ方)をしている訳ではないが、すべての企業が、日本的なライフワークバランス(週5日40時間労働)が守られる安定的な雇用をしている訳でもないことが可視化された。蛇足ながら、僕の友人は、友人が採用されたときのアジアエリアのボスが辞任したという理由だけで、芋づる式にテスラ・モーターズを解雇されている。“隣の芝生は青く見える”ではないが、日本社会は、欧米の“光”ばかりを見て、模倣しようとしているのではないだろうか。

 

ちょっと前まで、「同一労働同一賃金」や「成果主義」が叫ばれていた。ところが、今、扶養家族の人数に応じてインフレ手当を支給する企業が、称賛されている。同じ職種、同じ成果をあげても、扶養家族の有無、人数で、実質的な賃金に差をつけるのである。限られた原資を分配する賃金では、単身者が割りを喰うことになる。どちらが、良いか悪いかではなく、思考の一貫性のなさが問題だと思う。

 

日本社会は、前提条件を考慮しない欧米の“いいとこどり”が多い。採用されてから配属が決まる日本企業と異なり欧米企業は、職種別の採用がスタンダードである。企業の都合で、セールスパーソンが、経理部門に異動させられることもないし、拒否もできる。一方、日本企業は、製造現場で溶接もできれば、機械組立もできる多能工が歓迎される。(各工程負荷に応じて、フレキシブルに配置転換できる) しかし、溶接と機械組立を同時にできる訳ではないので、溶接をしているときは溶接工の賃金、機械組立てをしているときは組立工の賃金では、当人は、アホ臭くてやっていられない。(概して溶接工の方が賃金は高い) 能力に対する賃金が支払われないのであれば、賃金の低い機械組立技能を取得する価値は半減する。

 

日本企業の内部留保の多さも問題になっている。コロナ禍を経験した企業経営者は、イヤでも内部留保を厚くするものだ。コロナ禍で売上が激減しても、雇用を維持するためには、内部留保が必要だ。欧米企業は、コロナ禍の需要減でビシバシ従業員を解雇した。その結果、需要の回復した今も解雇した従業員が復職することなく、深刻な人手不足に喘いでいる。ジェットコースターのような雇用環境が、経済成長を支えているのだから悪ではない。しかし、何より安定重視の日本社会が、ジェットコースターに乗る覚悟があるのか?って、僕は、思っている。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/ふらっと群馬 第4回

2022-11-13 13:45:47 | 旅行

2022年の記録

平均すると週1回の頻度で、群馬県に出張している。そんな日常の中にある旅の記録。

 

 

早朝出発し、出張先に入る前に前橋カトリック教会へ。B.C.(Before.Covid.)に1度訪問している。

 

 

 

 

前橋カトリック教会は、司祭・内野作蔵が、「前橋一高い建物」として、1932年(昭和7年)に現在の聖堂を建設した。第二次世界大戦の前橋空襲で被害は受けたものの、奇跡的に焼け残った前橋の歴史を伝える貴重な建物で、国登録有形文化財指定されている。

朝の強い斜光のため隣接するビルディングの影が映り込んでしまい、ちょっと残念。

一方、バランス良く整った聖堂内は、とても美しい。

 

 

1895年(明治28年)に上野鉄道(こうずけてつどう)として設立され、1897年(明治30年)に開業し、同年中に高崎 - 下仁田間が全通した。現存する日本の私鉄路線のなかで、法人として存続する東日本最古の私鉄でもある。

下仁田から余地峠を越えて佐久鉄道(現:JR東日本小海線)羽黒下駅まで延伸する計画を立て、1921年(大正10年)上信電気鉄道へ社名変更したが、世界恐慌により頓挫。鉄道の延伸は実現していない。

現在は、私鉄、国鉄の中古車両をワンマン運行し、交通系ICカードは一切使用できない。無人の途中駅も多いが、有人駅の改札は、駅員が立つ。

写真は、有人駅の吉井駅。

 

 

手前にあるデキ1形は、1924年にシーメンス・シュッケルト (車体はM.A.N社製)より輸入された電気機関車である。観光庁の既存観光拠点の再生・高付加価値化推進事業(交通連携型)約2700万円の交付を受けて動態保存に向けて整備されることになった。

奥側は、1955年(昭和30年)に廃車となった日本国有鉄道(国鉄)ED31形6号機(元 伊那電気鉄道デキ1形電気機関車6号機)を譲受して、自社工場で車体・機器の改造を行った後、導入した。

いずれの車両も、現在は、高崎駅構内で留置されている。

 

 

250型は、1981年(昭和56年)に新潟鐵工所製新車で登場した通勤形電車である。

 

 

夜間、赤羽カトリック教会の聖堂内には、入堂できないため訪問することがなかったが、仕事帰りに外観を見に寄ってみた。

 

 

【メモ】

通勤で行く東京駅では、キャリーバックを曳いた訪日外国人観光客が目立つようになってきた。(日本人旅行者も激増している) インバウンド消費で、観光業が元気になることは悪いことではないが、その先に疲弊が待っている気がして手放しで喜べない。

 

飲食・宿泊・小売業などの観光業は、サービス業、まさに人件費の塊だ。しかも、飲食業の低賃金が、問題視されていることはみなさんもご存知だろう。生活費が労働力の燃料と表現するのは乱暴かもしれないが、円安影響で生活費が増加しているにも関わらず賃金が増えないのは、飲食業も例外ではない。円安が続けば、繁忙も続くが、生活費の増加も続き、まさに「働けどはたらけどなお、わがくらし楽にならざり」である。

 

僕自身も例外ではないが、日本人、日本社会は、平等意識が強い。客が金持ちか貧乏人か、日本人か外国人かで、サービスの対価に差をつけることに違和感を覚えるかもしれない。「外国人料金を設けるとインバウンドに水を差す」と心配する人もいるが、ほんとうに日本が魅力的であれば、そんな心配はないはずだ。低賃金由来のサービスの大安売りを続ければ、観光業は、疲弊する。家電などの製造業が、歩んだ道と同じ道を進むことを危惧している。

 

 

旅は続く


美麗的日本和我 (美しい日本と僕)/東京散策倶楽部 第23回

2022-11-05 16:57:02 | 旅行

2022年の記録

10月に入り、晴天の日に都内を散策した時の記録 (10/20,23)

前々回に使ったオールドレンズ(タムロンSP 28mmF3.5)で撮影。

 

 

バラの花と鳩山会館、画面構成にちょっとムリがあるのはご愛嬌。

 

 

20日は、東京メトロ霞ヶ関駅下車、法務省旧本館、日比谷公園旧管理事務所を散策の後、JR有楽町駅前のかごしま遊楽館で、常用の鹿児島極甘醤油を購入後帰宅。

23日は、JR王子駅から東京さくらトラム(都電荒川線) で、都電雑司ヶ谷下車、徒歩で旧宣教師館、東京カテドラル、鳩山会館を散策後、バスで上野松坂屋前に行き、JR御徒町駅から帰宅。

 

 

法務省旧本館は、前回訪問時は休日のため門内に入れなかったので、仕事を早く切りあげて平日夕方に訪問。敷地内で自由に撮影できるものと思っていたが、然にあらず。クルマとの接触事故防止のため、撮影エリアが指定されいた。といっても、来館者もクルマも疎らなのだが、警備員がバッチリ監視している。法務省内ってこともあり、厳格にルール遵守して撮影。

 

 

法務省旧本館から5分も歩くと日比谷公園。前回訪問しなかった、日比谷公園旧公園管理事務所は、1910年(明治43年)竣工のドイツ・バンガロー風建築物。現在もフェリーチェガーデン 日比谷として、挙式・披露宴会場として利用されている。

 

 

日を改めて23日、JR王子駅から東京さくらトラムで向かったのが、雑司ヶ谷旧宣教師館は、1907年(明治40年)にアメリカ人宣教師のジョン・ムーディー・マッケーレブが自らの居宅として立てた建物。旧マッケーレブ邸とも呼ばれる。豊島区に現存する最古の近代木造洋風建築で、東京都指定有形文化財である。

 

 

雑司ヶ谷旧宣教師館から“ぽっぽ鳩山邸”に向かう途中にあるカトリック関口教会は、カトリック東京大司教区の司教座聖堂(カテドラル)であり、教会堂名(聖堂名)が「無原罪の聖母」(聖母マリア)であることから、東京カテドラル聖マリア大聖堂として知られている。

1945年(昭和20年)に戦災で消失し、長らく再建されないままであったが、日本へのカトリック再布教100年事業の一環としてドイツ・ケルン大司教区の支援を受け、コンペにより選出された丹下健三案により1964年(昭和39年)完成している。

丹下健三案は、教会の建物そのものが頂部において十字架型になるとともに内部構造は、鳥居や山門をくぐって参道を歩みながら徐々に気持ちを整え、それから「本尊」に相対するといった日本の伝統的な手法が採用され、建物本体の記念碑性だけでなく「場」の力によって聖性を生み出す異彩を放つものである。

 

 

鳩山会館は、内閣総理大臣を務めた鳩山一郎氏の邸宅を鳩山ファミィリーの業績を伝える記念館として一般に公開したものであり、現在の所有者は、“ぽっぽ鳩山”こと、第93代 内閣総理大臣 鳩山由紀夫氏である。

1924年(大正13年)竣工の 鉄筋コンクリート造の洋館で、各所にハトやミミズクなど鳥をモチーフにした装飾が施されている。

階段の踊り場部分にある五重塔の上を鳩が舞う図柄の大きなステンドグラスがある。工芸家小川三知の作品。

 

 

【メモ】

終わらぬウクライナ侵攻、韓国の梨泰院事故に北朝鮮のミサイル発射と惨事や物騒な話が続く。タレントの中居正広さんの1ヶ月間の休養の発表があった。僕は彼のシンパでもなければ、アンチでもないが、“休養”にまつわるエピソードを思い出したので、ちょっと披露する。

かつの上司は、元軍人(中国人民解放軍士官)で、「“目標”というと、その方向に走っていれば、許されるような甘さがある。予算は“命令”、必達だ。」といった厳しい人だったが、「軍人にとっては、“休養”も任務。君たちも同じだよ。」と指導された。つまり、翌日に疲れを残さず、パフォーマンス・マックスにするために終業後、キッチリ休むことも業務なのだ。夜半まで、飲んだくれるのは、業務怠慢。 と言っても、夜9時、10時まで、残業を強いられ、それから飲みに行くこと、あったよなぁ。

 

 

旅は続く