2001年の記録
2001年頃の僕は、カラーリバーサルフィルムとモノクロフィルムを併用していた。今回は、原色の上海旧市街の記録をアップする。
上海を世界地図で見ると長江河口の港湾都市に見える。実際に長江河口にあるし、黄海に面した海岸もあるが、上海旧市街は、黄浦江の西岸の浦西である。日本へのコンテナ船やフェリーが発着する上海港も、黄浦江にある。上海の象徴にもなっている高層ビルがある新市街は、浦東と呼ばれるが、上海人に言わせると、黄浦江の東岸は、浦東であって、上海ではないと言う。
上海火車站近くのドヤ街は、道路に対して垂直に伸びた物干し竿に洗濯物がはためく。高度成長期には、日本にも似た雰囲気の街があった。
ビールの貼紙広告は、肌を露出したお姉さんなのが、日中共通のようだ。写真は、当時の上海でポピュラーだったサントリー、但し、味は完全に中国ナイズされたものだった。
ドヤ街から長安路を南に歩いたところで、若者が僕に話しかけてきた。「ここで、何してる?」 一瞬、嫌な予感がしたが、杞憂だった。趣味で写真を撮っていると伝えるとと、「じゃぁ、俺のこと写してくれよ」 と彼は仲間にも声を掛けるものの皆、恥ずかしがって、寄って来ない。写真に納まったのは、彼ともう1人。シャッターをきると、彼は満足そうに「元気でな!」と言って、去っていった。
様々な露店が軒を連ね、賑わっているところにでた。煙をもうもうとあげての路上調理など、今の上海では見られない。(PM2.5が問題になったときに禁止された)
突然、地べたに並べていた商品を仕舞い、屋台がたたまれ、蜘蛛の子を散らすように露天商が消えた。“城管”が来たのだ。“城管”というのは、城市管理行政执法局(環境、 衛生、作業の安全性、公害防止、健康、緑化、産業、商業、環境保護を所管) の職員ことだが、多くは給料の安い臨時職員で、チンピラまがいの者も多く、賄賂をせびることもある。評判の悪い中国の小役人である。
その“城管”が去ると、再び商品が並べられて、何事もなかったような賑いが復活した。
当時は、上海も冬に暖をとるのは、練炭だった。今でも、北方では日常の風景のはずだ。
カーボーンニュートラルが叫ばれる昨今だが、中国はともかく、途上国にとっては、現実的なプランではない。二酸化炭素をバカバカ輩出して、すでに豊かになった国に「二酸化炭素の排出をやめなさい。気候変動は、(途上国の)皆さんも困るでしょ」と言われても、素直に「Yes」と言えないはずだ。
【メモ】
2021年最後の日記になると思う。ご愛読ありがとうございました、もちろん2022年も継続しますので、宜しくお願い致します。
では、良いお年を!
旅は続く