CareTaker 's Log

主にスタートレックのことについて書くつもりが、
いつの間にやら日々思ったことについて徒然と。

自分が食べるものに敬意をはらえるか?

2006-01-23 00:04:06 | 雑記
考:「いただきます」って言ってますか? 「給食や外食では不要」ラジオで大論争
 TBSラジオ「永六輔その新世界」(土曜朝8時半~、放送エリア・関東1都6県)で昨秋、「いただきます」を巡る話題が沸騰した。きっかけは「給食費を払っているから、子どもにいただきますと言わせないで、と学校に申し入れた母親がいた」という手紙だ。番組でのやり取りを参考に、改めて「いただきます」を考える。【文・遠藤和行、写真・米田堅持】

 ◇「私の場合」を募集

 手紙は東京都内の男性から寄せられ、永六輔さん(72)が「びっくりする手紙です」と、次のように紹介した。

 《ある小学校で母親が申し入れをしました。「給食の時間に、うちの子には『いただきます』と言わせないでほしい。給食費をちゃんと払っているんだから、言わなくていいではないか」と》

 番組には数十通の反響があり、多くは申し入れに否定的だった。あるリスナーは「私は店で料理を持ってきてもらった時『いただきます』と言うし、支払いの時は『ごちそうさま』と言います。立ち食いそばなど作り手の顔が見える時は気持ちよく、よりおいしくなります」と寄せた。

 一方、母親のような考え方は必ずしも珍しくないことを示す経験談もあった。「食堂で『いただきます』『ごちそうさま』と言ったら、隣のおばさんに『何で』と言われた。『作っている人に感謝している』と答えたら『お金を払っているのだから、店がお客に感謝すべきだ』と言われた」との内容だ。

 また、申し入れを支持する手紙も数通あった。学校で「いただきます」を言う際、手を合わせることに「宗教的行為だ」、と疑問を投げかける人もいるという。

 永さんは、中華料理店を営む友人の話を紹介した。その友人は「いただきます」と聞くとうれしいから、お客さんの「いただきます」の声が聞こえたら、デザートを無料で出すサービスをした。後日、永さんがサービスを後悔していないかと尋ねたところ「大丈夫です。そんなにいませんから」と言われたという。

     ◇

 ライフスタイルの変化で、家族がいても一人で食事をしたり、外食や市販弁当を食べる機会も増えています。その時「いただきます」と言っていますか。あなたやあなたの周囲の「いただきます」は変わりましたか。その理由は何でしょう。ラジオで紹介された申し入れへの是非でなく、皆さんの「いただきます考」をお寄せ下さい。後日、紙面で紹介します。

 郵便は〒100-8051(住所不要)毎日新聞生活家庭部「いただきます」係。メールは表題を「いただきます」とし、t.seikatsu@mbx.mainichi.co.jpへ。採用分には図書カードを差し上げます。

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 ◇「大切なのは食べ物を大事にできているか」--永六輔さんに聞く

 番組のリスナーと共に考えた、永さんの「いただきます考」を聞いた。

 --「給食費を払っている」という理由について、どう感じましたか。

 ◆学校給食で「いただきます」を言うことへの抵抗は、以前からありました。それは、両手を合わせる姿が特定の宗教行為、つまり仏教に結びつかないか、という懸念です。宗教的なことを押し付けるのは僕も良くないと思います。でも「いただきます」という言葉は、宗教に関係していません。自然の世界と人間のお付き合いの問題です。

 「お金を払っているから、いただきますと言わせないで」というのは、最近の話です。命でなく、お金に手を合わせちゃう。会社を売り買いするIT企業や投資ファンドにも共通点があると思います。話の発端になった母親は「いただきます」を言うかどうかを、物事を売る、買うという観点で決めているのでしょうね。売り買いはビジネスですから、そこに「ありがとう」という言葉は入ってきません。「ありがとう」に準ずる「いただきます」も入ってこない。ただ、そういう母親がいることも、認めないといけないと思います。

 --永さんは、どういう意味合いで「いただきます」を。

 ◆「あなたの命を私の命にさせていただきます」の、いただきます。でも僕は普段、家では言ったり言わなかったり。ましてや、他人には強制しません。絶対言わなきゃいけないとは思いません。きちんと残さないで食べれば、「いただきます」と言って残すより、いいと思うんです。

 貧しい国には飢えて死んでいる人がいる。日本で残して捨てているご飯があれば、助かる子供たちがいっぱいいるわけでしょう。食べ物を大事にできているかどうか。言わないのが「ひどい」と反対することではない、と思います。

 --言っても、言わなくてもいいと。

 ◆普通に会って「こんにちは」、別れるときに「さようなら」。何かの時に「ありがとうございます」「すみません」「ごめんなさい」という、普通の会話の中に「いただきます」は当然入ってくると思うんです。特別に「みんなで言おう」というのはおかしい気がします。言っても言わなくても、大声でも小声でつぶやくだけでも、思うだけでも、いいことにしましょう。

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 ◇「食を見直す問題提起に」--宮崎では推進運動

 宮崎県では昨年11月から、食事の際に「いただきます」を言うことなどを呼びかける運動が展開されている。

 市町村やJAなど142団体でつくる「みやざきの食と農を考える県民会議」(会長・安藤忠恕知事)が、農産物の恵みに感謝するのに最も分かりやすい活動として取り上げた。「いただきますからはじめよう宣言」をし、「県民が食事の時にいただきますの言葉に乗せ、命の恵みを感謝する」などの方針を掲げた。

 事務局の同県営農支援課は「子どもが朝食を抜いたり、家族全員の食事の機会が減っている中、食を見直そうという問題提起の意味もあります」と説明する。県内の公立小学校では給食時に「いただきます」「ごちそうさま」を唱えている。

毎日新聞 2006年1月21日 東京朝刊


私は食事のときにはなるべく「いただきます」と言うようにしている。それは単にその料理を作ってくれた人に対してのみではなくその料理に含まれている多くの動植物に対してその命を「いただく」からである。上記の例にあるような「金を払っているのだから礼を言う必要はない」というような馬鹿も世の中にはいるようだが(私は「金を払っているんだから何をしてもかまわない」という気にはなれない)、もちろん料理を作ってくれた人に対する感謝の気持ちも必要だが、自分の食事によって命を失った動植物に対する感謝の気持ちを忘れるようではいけないと思う。

食べるということ、それはつまり他者の命を奪うということである。そのことにおいて人間は非常に罪深い存在であると思う。だがその罪深い行為をしなければ人は生きてはいけない。だから人は食べることによって奪う多くの生命に対し感謝していかなければいけないと思う。だから食事する際には奪う命に対してその命を「頂きます」そして頂いた後には「ご馳走様でした」と感謝の念をわすれてはいけないと思う。

だから出された料理はなるべく残さないようにしている。それが奪われた生命に対する最大限の感謝のしるしだと思うからである。

私はそう思うが人にこの考えを押し付ける気は無い。あくまで私個人の考えに過ぎないからである。


鯨をたべようが犬をたべようがそのひとの食文化に他人が干渉することは野暮だと思う、だがそのひとがそのものの命を奪うことに対して敬意をはらっているかどうかのほうが大切だと思う。そのことを理解しようとせずただ単に可哀想だからとか知性があるからとか言うのはまったくもって自分勝手としか言いようが無い。だったら自分たちが植物や他の動物の生命をうばっているのは問題無いのか?と尋ねたい。

私は私の身体を構成する生命や料理を作ってくださった方たちに対する感謝の気持ちは忘れたくない。頑固と言われればそれは仕方ないが・・・



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