“子ども”を取り巻く諸問題

育児・親子・家族・発達障害・・・気になる情報を書き留めました(本棚4)。

「『家族』を考える」 by 田下昌明&野口芳宏

2012年01月18日 22時21分34秒 | 家族
 副題:小児科医・教師からの提言
 モラロジー研究所、2009年発行

 タイトルに惹かれて以前購入した本です。年末の掃除で見つけて読んでみました。
 内容は、小児科医の田下氏と小学校の先生の野口氏の講演記録と、お二人のトークセッションが収められています。

 仕事柄というか、お二人の立場の違いによる主張の微妙な違いがコントラストとして反映され、興味深く読ませていただきました。
 田下先生は乳幼児期に安心を与えて子どもに生きる自信をつけ、旅立つ準備として欲しい。
 野口先生は社会性を養う場として学校の役割を強調。

 やはり小児科医である私は、どちらかというと田下先生の発言に共感するのでした。「抱き癖は母子に信頼関係ができたことの証」という文言には目からウロコが落ちました。
 ただ、彼は世代的に「敗戦により日本人が失った自信を取り戻したい」という気持ちも強く、それが暴走すると危険な思想になり得る要素もはらんでいるような気もしました。

備忘録
 自分のためのメモです;

田下氏の講演記録より

子どもを育てることについての3つの問いかけ

1.子どもは誰のものなのか
2.何のために子どもを育てるのか
3.どんな大人になってほしいのか

・・・この3つに答えを出さないと育児方針が決まらずぶれることになります(なお、”正解”はありません)。田下氏自信の答えは、

1.日本の社会のもの:親は日本の社会から、子どもが20歳になるまで委託されて育てている
2.日本が持っている歴史・伝統・文化を余すことなく壊すことなく、さらに発展させて未来につないでいく日本人になってほしい
3.法律を守る日本国民になって欲しい

子育て方法の連鎖
 あなたが子どもに向かって説教をしているとき、(あれ? 今自分が言っていることは親から云われたことと同じだ)と思うことが必ずあるでしょう。それは自分の経験した子育て、つまり自分が子どもだったとき、親がしてくれた子育てと同じことしかできないというのが、育児の特徴です。

自然流産は胎児の自殺ではないか
 それくらい、胎児は母の体調・心理に左右される存在であり、胎教の重要性が叫ばれる所以です。

胎教をしっかり
 胎教は簡単です。
 「おまえを愛しているよ。みんなが待っているよ。しっかり母さんのお腹の中で大きくなって生まれておいで。」「今日はこんなことがあったよ」
 そのようなことを話しかければよいのです。お兄ちゃん、お姉ちゃんがいれば一緒に。胎教に参加させることは、2歳や3歳であっても兄・姉になる自覚ができるからです。

 ちなみに胎児の好む音楽ベスト3は・・・
1.マイウェイ
2.シェルブールの雨傘
3.愛情物語 
 ベートーヴェンは嫌いでモーツアルトが好きという傾向も。

 ・・・ちょっと曲目が古すぎませんか?

数え年の正当性
 生まれたときは0歳ではなく、誕生する前から胎内で人間になって生まれてきたのですから、数え年の1歳の方が満の年齢よりも正しいと思います。

「インプリンティング」のポイント
 人間の場合、インプリンティングの時期は生後6週から始まり6ヶ月で終わります。終わる頃は人見知りをする時期と一致します。
 戦後、東京裁判を契機に日本文化を否定した施策が子育ての中にも入ってきました。
 「抱き癖をつけるな」
 「添い寝をするな」

 と。子どもが自立するのを妨害すると考えられたのです。
 しかし、本当はその逆です。
 抱き癖さえつければ全部うまくいくのです。抱き癖をつけて母子の信頼関係ができれば、いい子に育ちます。

アタッチメントの重要性
 エインズワースという心理学者が「母は子どもに対して安全基地を提供する」と云ったように、一番大事なことは2歳半まで、できれば片時もお母さんは子どもの側を離れない方がいいと云うことです。子どもにとって泣いて帰れる場所がないと子どもの心はうまく育ちません。
 いじめの結果、遺書を書いて自殺する子どもがいます。非常に酷な言い方ですが、遺書を書いて自殺した子ども達は、親が安全基地になっていないということです。泣いて帰るところがなかった、だから自殺したのです。

「抱っこ」はいつまで?
 それは子どもが「もういいよ」と云うまでです。だいたい私の経験では、早い子で小学校4~5年生、遅い子で中学1~2年生ですね。それを見届ける前に「もう大きいんだから」と拒否すると、いつまで経っても抱っこして欲しいという気持ちから卒業できず、逆に自立を妨げることになります。

子育てにおけるお父さんの役割
 子どもが3歳になるくらいまでは、子育てはお母さんが主役で、お父さんはやはり脇役です。お父さんの役割は、子どもとお母さんとの関係がしっかりできるための後ろ盾です。お母さんを励まし、お母さんを大事にして、安心してお母さんが母子関係を成立できるように後押しをすることがお父さんの仕事です。
 もう一つのお父さんの仕事は、子どもと遊ぶことです。いつまで遊ぶかというと、子どもが「お父さん、もう遊んでくれなくてもいい」と言うまでです。だいたい12歳くらいです。この時期(ギャング・エイジ)にはお父さん・お母さんよりも友達を優先するようになります。
 しっかりと本気で子どもと向かい合ってよく遊んだお父さんは、子どもが思春期になって言いたい放題のことを言い始めても、ひるんだりしません。途中をいい加減にしていると、お父さんはひるまざるを得なくなります。お父さんがしっかりやっていると、子どもは善悪と真実の人生を選ぶようになります。

仕事か子育てか・・・お母さんのジレンマ
 「仕事を取るか、育児を取るか」という設問をよく聞きますが、この設問そのものが間違っているので答えはありません。なぜかというと「育児はそのお母さんと子どもの人生の一部」だからです。人生の一部を人に代わってもらうわけにはいきません。
 育児をするならば、仕事は当然できるわけがありません。1時間、2時間の仕事ならば、取り戻すことが可能なのでよいと思います。

3歳までテレビを見せてはいけない
 医学的問題を指摘すると、テレビを見ている間は立体視をしていないので、長時間続くと立体視ができなくなる可能性があります。それから、ハイハイやつかまり立ちをするのが遅れるため背筋と腹筋の発達が遅れます。さらに、言葉を覚えるのが遅れます。
 それよりも大きな問題は「家族の時間がテレビによって壊される」ことです。

手に入れたものはすべて失い、与えたものだけが残る
 私が手に入れた僅かな財産など、墓場には持って行けません。つまり、全部失うのです。けれども私がここで、仮にいい講演をして皆さんに感銘を与えたとすれば、それは私が死んでも残るでしょう。
 つまり、人に与えること、人の役に立てること、これこそが人生の本物の大きな喜びなのです。

「子育ての民俗を訪ねて」by 姫田忠義

2012年01月13日 07時25分20秒 | 育児
 副題「~いのちと文化をつなぐ~」
 柏樹社、1983年発行

 在野の民俗研究家である著者が「民族文化映像研究所」の仕事として日本各地を訪れた際に見聞きした子育て文化に関する文章をまとめたものです。

 日本古来の一般人の生活を垣間見ると「弱き者は寄り添い工夫して生き延びてきた」という厳しい現実に突き当たります。
 夫婦・親子の絆、地域の結びつきが現在よりも強かったのは、取りも直さずそうしなければ生きていけなかったから。そして「生きるための知恵」が随所に散りばめられていました。

 当然、子育て習俗にも反映されます。
 子どもを育て、一人前の働き手にするシステムが家・村に存在するのです。もちろん学校がない時代から。
 記憶に残った箇所を列挙します;

与論島では一人で子どもを産む
 この島では、家族にも誰にも知られないで一人で出産するのが賢い女のすることだとされていた。出産を家族や他人に知られるのは恥だった。産婦は昼間の畑で一人で産み落とし、自分の下着にくるんで帰ったり、夜であれば、主人に知られないように奥の間で一人で産み落とし、産み落とした後に主人を起こしたりした。ヘソの緒は、一人でヤンバルダイ(琉球竹)で切り、マフウ(麻)でしばった。そして1週間ほど、火の燃えるジュウの横で休ませてもらった後、体を慣らしながらふだんの生活に戻っていった。
 この村に産婆さんが登場したのは昭和15年頃だが、その後も自宅分娩がふつうだった。
 出産は自分の力でするものだという気風が、今も脈々と生きている。
 しかし、昨今の日本では、そうでもない様子。出産であろうが何であろうが、すべて医者任せの風潮が嘆かわしい。
 ここで生まれた子には、和風の名をつける前にまず伝統的な島風の名(先祖から子孫へ次々に伝えられてきた名)をつける習わしがある。子どもは単に夫婦の子ではなく、先祖から与えられ、神から与えられたものだという意識が脈々と生きており、特に女性にそれが深々と伝えられている。

子どもは神からの授かりもの
 埼玉県秩父地方では「7歳までは神の子」「7~15歳は村の子」「15歳以上は村の人」という。
 これは7歳まで生き延びるのが大変だった時代の名残もあると思われる。事実、7歳になるまで祭事が多く存在し、子どもの発育・成長を喜びながら大切に見守ってきたことの表れであろう。
 伝統的な日本人の認識では、子どもは決して親という個人のなにものかではなく、社会的な集団の一員であり、ことに7歳まではその社会全体が注意深く見守るべき「授かりもの」であった。今日の私たちには、そういう意識が欠落してきていると云わざるを得ない。

大和撫子の意味
 昭和初期は戦争を繰り返した時代だった。
 天皇・国家に忠実な国民として、男には「醜の御楯」「山桜」、女には「大和撫子」という言葉が盛んに使われた。
 ナデシコは秋の七草の一つに数えられた野草で、撫子(撫でる子、愛撫したい子)と書いた。昔の人はこの野草に強い愛着を持ち、また子ども(あるいは女性)への愛情をこの野草の名に託して歌に詠み込んだりしてきた。
 そしてそれが、国民はすべて天皇の赤子だという言い方と同じように、女は大和(国家)の撫子である、天皇の撫子である、というふうに利用されるようになった。撫子として生きるのが女らしさである、言い換えれば愛撫され服従して生きるのが女らしさである、ということ。
 古来日本人が抱いてきた自然の草木への愛情や純なる人間的愛情の表現が、見事に天皇制国家主義のうたい文句に利用されたのである。

トシドン~失われた「郷中教育」
 鹿児島県下甑島では、毎年大晦日の夜行われる「トシドン」という正月迎えの行事がある。トシドン(歳どん)と呼ばれる異形の神、子どものいる家々を訪れて回る行事で、秋田の「ナマハゲ」や能登半島の「アマミハギ」などと共通の性質の行事である。
 トシドンは伝承によれば天上から首のない馬に乗って降りてくる神様。その異形の神様が闇の中から「おるか、おるかーっ。おるなら雨戸を開けーいっ」と大声で呼ばわる。
 トシドンを迎えるのは3~7歳の子ども。家の中で裸電球一つの暗がりで、子ども達は親と一緒に正座し息を殺して待っている。
 トシドンが入ってくると、親は子どもにきちんと挨拶をさせる。トシドンは容赦なしにふだんの行い・いたづらを問い詰め、改めるべきことは改めるかどうか子ども達の返答を迫る。そして最後は褒め、諭して去っていく。
 つまりトシドンは、子どもを怖がらせるためにくるのではなく、子どもを諭したり励ましたりするためにくるのである。
 そしてトシドンが与えてくれる餅(モチ)がトシダマと呼ぶ。トシダマは、新しいトシ(歳・年)のタマシイ(魂)という意味。今日私たちがお年玉といっているのは、本来そういう意味のもので、それが今ではお金になっている。
 トシドンに変装するのは今は大人だが、第二次世界大戦が終わるまでは7~15歳の子どもが担当した。ということは、3~7歳は迎える側、7歳を過ぎると今度は訪ねる側になるのである。子どもは「教え諭される側から教え諭す側になる」という両方の体験をすることになり、そして15歳を過ぎると様々な村の仕事や行事の担い手となっていく。この3つの段階を「郷中教育」という。
 今の学校教育では、子ども達は常に一方的に「教えられる側」にある。「郷中教育」では、最初は「教えられる側」であるが、すぐに「教える側」になり、しかも絶えず「教えられる側」でもあるという優れた面を持つ。
 なによりもトシドンには、子どもが子どもを教える、子ども同士が教えあうという非常に大事な、また最も有効な教育のあり方、さらには文化の伝承の仕方が内包されている。
 そもそも教育とは何だろうか、それは、人間の自覚を促すと云うことではないだろうか。

 子どもがまともに育ちにくい今の時代、含蓄に富む言葉です。