この時期、いつも郷里の奈良を思い出す。
寒さ極まる頃に、飛火野あたりから広がる寺々の境内一帯が四季の中で最も美しくなるように、僕は感じていた。盆地で乾燥しているから、風が冷たく体の芯から冷えるが、白壁や古寺の柱列の黒茶などが枯れ野や凍った土や冷気や閑散のなかで水墨画のように見える朝があった。
もう一つ身に沁みこんでいるのは、冷え切る体に力を注ぎ込むような、炎の神事だ。
若草山一面が炎に包まれる「山焼き」、東大寺修二会の「お水取り」、お隣り熊野の新宮での「お燈祭り」。
いづれも切れるように寒い夜に行われるが、本当に美しい。
物心ついた頃には毎年連れられて行っていたそれら祭事の炎が、年々心のなかで強く燃え上がって、深く語りかけてくるように思えてくる。懐かしさと違って、だんだんとあの風景の意味が飲み込めてくるような感じ。
修行僧や若者たちが轟々と燃え盛る炎をかざして衆生の前に身を投じて力の限り凍てつく地を踏み叩き闇を照らし、その背景に静かに唱和し続けられるマントラ。
そんな行為が春を呼ぶのだと老人はみんな口を揃えた。
枯れ野の闇に火と身を投じ、祈る。それは子ども心には踊る人影に見えた。
炎は生き物の魂に見えた。
都市の雑踏に埋もれて久しいが、ときおり思い出す。
寒さ極まる頃に、飛火野あたりから広がる寺々の境内一帯が四季の中で最も美しくなるように、僕は感じていた。盆地で乾燥しているから、風が冷たく体の芯から冷えるが、白壁や古寺の柱列の黒茶などが枯れ野や凍った土や冷気や閑散のなかで水墨画のように見える朝があった。
もう一つ身に沁みこんでいるのは、冷え切る体に力を注ぎ込むような、炎の神事だ。
若草山一面が炎に包まれる「山焼き」、東大寺修二会の「お水取り」、お隣り熊野の新宮での「お燈祭り」。
いづれも切れるように寒い夜に行われるが、本当に美しい。
物心ついた頃には毎年連れられて行っていたそれら祭事の炎が、年々心のなかで強く燃え上がって、深く語りかけてくるように思えてくる。懐かしさと違って、だんだんとあの風景の意味が飲み込めてくるような感じ。
修行僧や若者たちが轟々と燃え盛る炎をかざして衆生の前に身を投じて力の限り凍てつく地を踏み叩き闇を照らし、その背景に静かに唱和し続けられるマントラ。
そんな行為が春を呼ぶのだと老人はみんな口を揃えた。
枯れ野の闇に火と身を投じ、祈る。それは子ども心には踊る人影に見えた。
炎は生き物の魂に見えた。
都市の雑踏に埋もれて久しいが、ときおり思い出す。