櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

すでに出来上がっている自分の世界を真っ白にして新しい感覚をつかもうとする姿!

2011-10-25 | レッスン・WSノート
短期集中レッスン3日目。日曜の午後いっぱい、踊り尽くした。
初心者からダンスの練習生や舞台に造詣のある方ふくめ20代から50代まで、バランスよく9名の方が集う。
5回のセッションで作品を創る体験をしてみませんか、という呼びかけに答えてくださった方々である。

初回は、アイコンタクト、目の表情、やがて身体に集中する稽古。
「目力」という言葉があるけれど、目は光なり、エネルギーの出所である。
活きた目、輝きのある目、そんな目をスッと差し出せればバッチリである。
2回目は、逆に目を使わない体験のなかで身体をとらえ直す作業とした。
稽古場から野外に出て、目を閉じたままで一定の時間、行動した。効果的ではないかと僕なりにプログラミングしたコミュニケーションをこなしてもらった。視線をころして空間に触れてゆく稽古も。
動きを試み、その姿を観察し、言葉にして確かめ合い、また動きに集中して・・・。
僕らの感覚は実に多様だ。あえて目を閉じてみることから、その姿を他者にさらすことから、気付きが多かったように思う。そして、閉じたその目は、内面を観ていたかもしれない。
今回、3回目。これまでの経過から感じたことを話し合った後、いよいよ「舞踏体」という「構え」に挑戦することから始まった。可能な限り五感を繊細にして、いつでも動ける体勢で、静かに佇む。
言うは易し。すぐにできることではない、それは承知の上。
しかし、ひとりひとりがいま、すらりと背を伸ばして柔らかく立った。
スタートラインに立てた感がある。
さて、いよいよ踊りである。感覚をひらけるかぎりひらき、足場をしかとつかみ、背を胸を揺らし腕を空間にさしのべて、ダンスを始めた。言葉のグルーヴを身に映す、音楽を力の波に変換する。

いま何かが始まる。そんな雰囲気を創り出すことに一歩、近づいたと思う。
思い描いてほしい。音を呼吸し言葉を受けとめ、湧く思いを天に地に、還してゆく自らの姿を。

大人のダンスである。
きっちりと生活背景がある身体。
一人一人の確かな存在感がある身体。
そうありたい。
夢や妄想をふりまくのではない。
特別な世界観を語るのでもない。
職場や家庭で働いてきた手や足や背中。
それが美しいと思えるようなダンスでありたい。
生きている限り生まれては消えてゆく「毎日」を過ごしてきた生身の人間が、
いまこの一瞬の貴重さを呼吸し尽くしている姿。

一念をこめてググッと動くとき、
動きによって、瞬時の思いが身体から空間へ時間へ、じわじわと染み込んでゆく。
これでは通じない、もっと出来るはずだ。私の心はいま、こういう感じなのだよ、本当なのだよ。
と、動きへの集中を繰り返す。
爪先がのびる、手のひらが表情をあらわにし始める、背中が、胸板が、大きくうねりを孕む。
背負っているもの、過ごしてきた日々、いま見つめているものが、ある。
それらをくっきりと意識しながら、他者に自らをさらけ出す、
未だ知らぬ声に、耳をすまそうとする。
そこで身体は、確かな存在感を放つ。

過ぎ行く時間の貴重さを感じる時、身体の重量は、より確かなものになって土を踏む。
差し延べた腕が、言葉となり歌となる。
しゃがむ、その一瞬の沈黙が、記憶をめぐる旅となる。
立つ、その足が背中が、覚悟や誇りや迷いや哀しみや強さや弱さを、かみしめる。
過去が未来につながってゆくことを、踊りに託すことができる。
やがて、音楽のなかに飛び込んでゆくそのとき、肉体の奥から、何かがはじけようとする。顔が紅潮する。
そんな一瞬一瞬に、尊厳がある。

すでに出来上がっている自分の世界を真っ白にして新しい感覚をつかもうとする姿。
本当に素敵だと思う。
無心になろうとする姿は、コチラまで背がしゃきっとする。
子どもたちに、見せたい。
と思えるような瞬間が、何回もあった。
おつかれさまです。つぎの稽古が楽しみです!

明日は「舞踏クラス」の日だ。
少人数制セミプライベートのレッスンで、訪れる方と落ち着いた時間を過ごす。
ゆったりと話しながらの稽古となるか、たっぷりとカラダの芯まで動き尽くす稽古となるのか。
楽しみにしながら稽古場に行こうと思う。
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