櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

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「革命の女たち」のそばで(アンゼルム・キーファーの)

2018-08-14 | アート・音楽・その他
人、というものをお前は本当に知っているのか。
そう問い迫るような作品に出会うことがある。
アンゼルム・キーファーのインスタレーション作品『革命の女たち』(1992)は、僕にとって、その一つだ。
まさに人についての認識を問いかけてくる作品だと僕は思う。
これを再見したくなって軽井沢に行った。

はじめて目の当たりにしたときは、見てはいけないものを見てしまったようで、眼をそむけてしまった。いや、何をみているのかさえワカラなかった。つまり、作品に宿る力に打ちのめされた。それゆえ、つよく記憶され、その記憶を見てきた。この作品から始まったものは多大だった。そして15年ほども経って、目にしたそれは、こんどは途方もなく深く透明な溜め息のようだった。尽きることのない哀しみ。感情の泉。ロゴスとはこれかと思った。

『革命の女たち』は空間構成を作品とするものだが、「インスタレーション」という美術用語で言うのはなんだか残念で、それは「部屋」そのものと言ったほうがいいかもしれない。あるいは「場所」そのものでも。

収容所の部屋、病院の部屋、居場所としての部屋、生と愛と孤独と死の場所としての部屋、それら「部屋なるもの」のもっともデリケートな場所である「ベッド」が、この作品の核と言ってもいいかもしれない。ベッドとは時でありあ、ベッドとは温度りで、ベッドとは匂いであり、ベッドとは肌であり、、、。

まずそこには鉛の床がひろがっている。鉛の床に、鉛のベッドが14台、整然と置かれている。朽ちているのだろうか、破壊されたのだろうか、すべてのベッドは廃墟のように荒んでいる。そしてすべてのベッドには凹みがある。

ベッドの凹みには水が溜まっている。あるベッドには、枯れた植物が置かれている。あるベッドには、人間の歯が、あるベッドには、土が、あるベッドには、小さな衣服が、、、置かれている。

すべてのベッドサイドの壁には、手書きの名札が貼られている。21枚の名札が、一定の距離をおいて貼られている。名札には女性の名前、いづれもフランス革命で悲劇的な最後を遂げた女性たちの名前が書かれている。

革命で活躍したが男性の憎しみと攻撃の的になり、監禁され、そのまま行方不明となった女性の名前。ロベスピエールらを糾弾し断頭台に消えた女性の名前。ポール・マラーを殺害し「暗殺の天使」と呼ばれ処刑された女性の名前。21名の女性たちの、名前、名前、名前、、、。

そして、空間のいちばん奥には、鉛のシートに貼られた巨大な白黒写真が掲げられている。写真には、荒れ野に立つ後ろ姿の女性が写っている。写真には、枯れたひまわりが献花されている。

この作品、いまは緑ゆたかなセゾン美術館に所蔵されて内部には入れないが、はじめて出会ったのは1993年に東京で開催された個展のときで、これは作品に迷い込んだようだった。都市の百貨店と物流倉庫という対照的な空間に展開されたキーファーの世界は生きたエネルギーそのものだった。それゆえ、ある種の抵抗や葛藤や重さや臭気として胸に迫り、棘のように突き刺さった。しかしこれは「私たちの未来」にとって最も大切なことは何かと問いかけ迫ってくる哲学だと僕は思った、今も思う。

初期作品に彼は父の軍服を着てナチス式敬礼をする自分自身を登場させたことがあるが、この人の作品から僕は、自らに矢を放つような態度を感じさせられる。歴史に対して、あるいは民族的な罪に対して、その子孫としての自分は今現在のなかで何をすれば、という、当然これは日本人にも接しているテーマに、この人は向き合っていると思う。

キーファーの作品の前に立つとき、僕は僕自身に投げざるを得ない問いの一つを、ごまかすことができなくなる。みずからに対して、お前は何者か、と問う心に、キーファーの存在は激しく語りかけてくる。『革命の女たち』という、この美術作品と初めて出会ったときに感じたある種の精神状態が、新たなダンスを探し迷いながら、いま息を吹き返しているような気がしてならない。

個人、あるいは個体、さらには身体、というものは、時の流れから切断されたものではなく連続するものではないか。と思う。連続するゆえに、その連続を断ち切って独立を探そうとするのではないか、とも思う。自由という言葉は、そこに関わっているのではないかとも思う。

身体には、時の流れから、祖先から、民族から、歴史から、国家から、土地から、文化から、、、、受け継がざるを得ないもの、引き受けざるを得ないもの、受容と否定のはざまからなんとかして新しい意識をつくり出さざるを得ないもの、「血の問題」があるのではないか。そのようにも、僕は思っている。

踊りは、身体を通じて人間を掘り下げてゆく行為だ。だから踊りは、血に接近する行為なのではないか、と僕は思っている。踊りは同時に、血を克服する行為にもつながるのではないかと僕は思っている。言い方を変えれば、踊りはアナーキズムにも繋がっているかもしれない。

ダンスも美術も音楽も、あらゆる個的芸術は、どこかでワタクシ自身を超えた何かにぶつかるのではないか、と僕は思う。そのように思う思いと行為に、あいまいさや怠惰を許さない「ひとつの思索」の圧倒的な強度を、僕はアンゼルム・キーファーの作品と態度に感じている。



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新作公演
櫻井郁也ダンスソロ:『白鳥』9/29.Sat.~30. Sun. 2018
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