櫻井郁也ダンスブログ Dance and Art by Sakurai Ikuya/CROSS SECTION

◉新作ダンス公演2024年7/13〜14 ◉コンテンポラリーダンス、舞踏、オイリュトミー

かなたにひろがる闇、イメージのはじまり(ダンスクラス経過)

2011-10-23 | レッスン・WSノート
ダンスクラスでは、今シーズンの作品が振付けを終えた。ここから踊り込みの稽古となる。関わって来た一人一人が作品の流れに身を委ねながら、それぞれがもっているかけがえのない個性を発見し空間に時間に解き放ってゆくプロセスだ。年間の規則的な稽古によって、このクラスの人たちは一歩一歩、たしかに「踊り手」というスタンスに近づいてゆく。その証拠が、感応の力。音を感じる、言葉を感じる、他者を感じる、自己を感じる。そんな雰囲気が踊りからにじみ出る。いいな。それは、大地を、天空を感じながら正確に一つの自己として垂直に立つ、その人自身の固有の姿の美しさへの着地を予感させる。練習のひとときひとときを見つめながら、やはり心が動く。みつめながら、話したいことが出てきてあふれそうになり、僕は稽古を止めてしまうことがある。ハイ、ちょっと休みませんか?そんなことが、しばしば。

練習の合間に、イスに座って目の前の部屋をじっくりと眺めてもらった。
いや部屋ではない、そこに広がる空間を、である。これから踊る場所をじっくりと視野にとらえて想像力にバネを利かす。
がらんとした場所。まだ誰も踏み出していない空間、これから踊りを解き放ってゆこうとするヒロガリを前にして、少し話した。
「闇」についての、随想つれづれ。踊る時に、まず想像してもらいたいのが、目の前に広がる無限大の闇なのだと。そこにどんな光を放つのか、どんな音響を響かせるのか、どんな一陣の風を起こすのか、という意識をもって踊り始めてほしいと。まあ、要点はそんなことなのだが、響くところあったのかしら、そのあと再開した稽古での踊りは大きな波がうねり始めていた。

闇について話しながら、たとえ話として、最近の名舞台を例に出した。写真家の杉本博司が演出した「曾根崎心中」のこと。夏の上演は相当な話題になったから、ご存知の方もあるかと思うが、あの闇の作り方は心の根っこをつかむような鮮やかさだったと僕は感じる。果てしない闇に浮かぶ一点の光が花のごとく色めき人の姿を定着させる。それが悲しみとエロスと永遠性のめくるめく物語へと進む、あの運びは、舞い手が遠いビジョンに身をなげうって溶け込もうとする心持ちそのものと喜んだ。この舞台のこと、かなりのインパクトだったしドキュメントもテレビ放映されてこれもなかなか面白かったから、いづれここに書きたいと思っているけれど、クラスでは、自然な流れでいろんな舞台のことが口を滑る。とりとめなく。本当は、かつての寺山マッチのことや、美術家ジェームズ・タレルがつくりだす闇のゆたかさなども話すべきだったのだけれど、時間が無かったから来週にでも話そうかしら。

ダンスクラスでは、何ヶ月かかけて5分から10分くらいのダンス作品を創る。
一つの作品がカタチになった頃、その作品を通じて身体の変化が見え始める。
創作のプロセスで経験したさまざまな身体や感情や思考の動きが、一人一人の身体に咀嚼されて、ある種の技術というのか、姿勢や軸の強度や呼吸や指や目力やリズム感や柔軟性・・・、といったことごとが、変化し始める。そして、次の創造へと想像力が胎動し始めて新たなシーズンへと橋を架ける。いま、ちょうど、そんな気配が始まっている。いつも、この時期の練習は、とてもいい。踊っている姿を見ながら、ダンスという狭い範囲を抜け出して、さまざまな話が湧いてくる。稽古をつけながら、思い浮かぶワードをメモしていると、あっという間にA4くらいの紙が何枚も文字や絵や音符で埋まってゆく。そのなかから、時間の許す範囲で、絞り出してワアッと話す。そんな話題の一つが、この日は「闇」のことだった。

さて、どんなふうに踊りがふくらんでゆくのか、ワクワクものである。
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