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鼓曲萬来

Rock'nRoll My Way ⑬ ラストバンドマン1

ハルヲフォンを抜けて、さて....と...どうしたもんかいな

しばらくはLIVEHOUSE等に出演していたんだ.
まあ..ハッキリ言って、先の事に関しても
「こういう風にやっていこう」
なんて考えはまだ纏まらずにいたけれど
 
とりあえず長沢や岡井に頼んでバックやってもらったりして、
しかし、此の頃はもう当然JAZZ喫茶も皆無だし、
契約で入るDISCOみたいな処は、消滅していて、
正直、どういった方法がやりやすいのか
皆目見当もつかない状況
 
これからスタートっていうミュージシャンであれば、
それなりの苦労してでもライブでって
そんな気概や気持ちもあるんだろうけどね
かれこれ10年程の経験から
なんとかなるかな、みたいな安易な気持ちも確かに持っていたんですわ
 
しかし業界や時代の流れは、っていうと
70年代には考えられないようなBIGアーテイストも出現して来たし、
アルバムセールス何十万枚なんて状況も、
 
実際ROCKバンドのアルバムがチャートの1位なんて、
そんな昔は考えられない事も当たり前になって
LIVEHOUSEからは続々と人気バンドも出て来た
 
でも、まあ..バンドって言うよりは、SOLOのアーテイストも増えて来たんだよね
 
そりゃ生ギタ-一本とかピアノの弾き語りなんて方が
仕事するほうでも良いに決まってるもんね。
生バンドの演奏なんて事務所や店にとっちゃ金がかかるだけだし..
DJを入れて音を出しゃ、もうそれで踊るには充分だし..
実際デジタルな音楽も主流になりつつあったんだ。
 
又反面、パンクやグラムで育った我々より若い連中が
新しいロックシーンを作ろうと
若干アンダーグラウンドに潜り
サブカル風味と合体して精力的に
この国のロックシーンを盛り上げようと
頑張っていた、そんな時代

まあ..反面ある程度売れれば仕事にはなったんだろうけど
単発の仕事だけじゃとても食べていけない
生活基盤を演奏にという感じはなかなか難しくなったかな..
つまりバンドじゃ飯を食いにくくなって来た訳ですわ
 

当時、自分なりに考えた選択肢も色々とある事にはあったんだけどね..つまりさ

1、制作SIDEに転換する
2、転職する
3、次の時代に対応する、音を作っていく 等々

兎に角生活基盤をどこかに置かなきゃならないのは確実な訳で

でも..まあ..正直言ってあまり考えは決定出来なかったんだ.
70年代もそろそろ終わりになろうとしていた頃なのに。
 

ラストバンドマンなんだよね...実に

ボビーウーマックのアルバムにラストソウルマンなんて、
そんなタイトルがあったけど、
そうだな~、俺はさしずめラストバンドマンなのかも知れない...そう思ったんだ。
 
毎日演奏、それが当たり前の生活、
将来の生活設計とかきちんとしている奴には到底考えられない領域、
そんな日々を過ごして来た自分
それが当たり前なんだよね..実際音楽以外の仕事はやった事が無いんだ..
 
それでも、やはりね生活していかねばならない
とりあえず、何か仕事の宛てでも捜さなきゃ..って感じで
手当たり次第に友達や、知り合いに連絡を取ってみたんだ
願わくば月単位の仕事とか、まだありゃ良いんだけどってそんな気持ちでね

で、不思議な事に10年1サイクルって訳じゃないんだけど..
そう、昔、中学生の頃夢中になっていた音楽、
それがリヴァイヴァルと言うか、
東京のLIVEHOUSEの一つの領域に
OLDIES HOUSEなるカテゴリーが多く出現していたんだな..
 
俺はこういう処は「引きが強い」っていうか
ラッキーというか,,,
 
ハルヲフォンの頃よく出ていたKENTOSも全国展開もしていたし、
一時は転職したりして現役を引退していたGSの先輩達も、
それが仕事になる、って感じで再結成とかも多くなって来た..
 
勿論シーンは新しいバンドが登場して段々カラオケとかと密着して
新しい日本のPOPSシーンなんて感じでメ-カ-主体で、進んでいた訳だけど。

六本木SUPERSTAR

知り合いから紹介されたのは六本木に出来たOLDEIS HOUSE、
そこでドラムを募集しているという情報だった..。
 
やった、勿論どんなジャンルでもやろうという気持ちはあったんだけど
ロックンロールね....
そいつは自分にとってはプレッシャーも少ないし
多少の自信もあった
 
スーパースターは 六本木の芋洗い坂の途中のビルにあって..
オーナーは西野バレエ団でプロデュ-ス等をしていた阿部徹さん..
GSの前の時代、つまりロカビリーなんて時代の方で、
田辺昭知さん、清野太郎さん、加瀬邦彦さん、清原たけしさん、
オーディションと言う事で俺はその店に連絡して尋ねて行ったんだ

でね、オーディションは数曲で終了した、
「お前、色々な曲よく知ってるな~、」阿部さんはビックリしていた、
当然オーディションを受けに来るドラマーじゃ、すぐ対応出来る訳はないんだよ、
渋いジーンビンセントやエデイコクランのドラムフレーズなんて、
まあ..当然なんだけどコーラスリフなんてのも叩きながら歌える訳で....(笑)、
即決!「明日から入ってもらいたい」そういう事で
毎日の仕事を一応確保した訳ですわ。
 
BASSはCHARのところにいたジョージマスティッチ、ギターは水内って奴、
ドラマーはその時点では毎回トラを入れて営業していたらしいけど
やがて二人もその店をやめて..
代わりにジャガーズの沖津さんや491の石井さんなんかが
日替わりでギターに入った、
 
BASSは俺と高木が抜けた後のハルヲフォンに入った藤田哲也に代わって、
俺は毎晩そこで演奏しながら、次の事を考えていたんだ、..。

しかしSUPERSTARは結構面白い店で..
阿部さんの友達もよく訪れていたから、飽きなかった、
スパイダースのかまやつさんや堺さんが来て歌っていったり、
沖津さんが「ダンシングロンリーナイトのイントロのFUZZは
コウちゃん(エデイ藩)に借りたんだ」って事で
エデイさんもよくギターを弾きに店に来ていたよ、
 
ストレンジブルーとか、そうそう「朝日の当たる家」歌ったら..
「エリックバードンかと思ったぜ」なんて誉めてくれた事もあった。
 石井さんはサーフギター!サーフパーティなんて曲が俺は好きで、
ステージで何度もリクエストした。
 
アイ高野とは同い歳だから..奴が来るとリヴァプール大会になるんだな
 奴のお得意は勿論ZOMBIESとかKINKS,
それに意外とうまが合って
大森の家の一階と2階に住んでた事もあるんだ
 
モッチン 

そういえばモッちんはもういないんだよね..
ちょっとそのショックは今でも尾を引いてるんだ
 
モッちんはね..俺はラストバンドマンなんて自分でそう言うけど..
奴こそ本当のラストバンドマンだったよ..
いつもニコニコしてお客さんのREQUESTに気軽に答えて、
その場を明るくしちまうんだ..
歌もよかったし..あのとっぽいドラムもね..天才だよ、
「よしみよ~俺達ってとっぽいよな..」奴はよく俺にそう言ってた..
 
でもね、もういつでも「好きさ好きさ好きさ」さ..
どんな日でもお客さんのREQUESTはそれさ..
 
その後クリエイションに入って「ロンリーハート」なんて曲で頑張ってたけど...
でもさ..「好きさ..好きさ」..なんだよね..
俺は解ってたよ..もっちんが何を考えてたかは..
でも..奴はそんな事おくびにも出さない.
いつでも愛想よくあのステイックポーズ付で..お客さんのREQUESTに答えて..
 
もういいよもっちん、他の曲やろうぜ..ってそんなサインも出した事も有るけど..
奴はさ...やっぱりリアルラストバンドマンなんだょね..
お客さんの喜ぶ顔が一番好きだったんだろうな...
「お前の~すべて~っ♪」て、勿論お客さんは大喜びさ。
 


確かに

毎日の演奏は体力的には結構きついものがある、
時には風邪なんか引く時もあるし、
穴をあける訳にはいかないからね..
しかし、前向きな考えさえ持たなきゃ(笑)或程度毎日楽に過ごせるわけなんだが、
俺はやっぱり、此れだけしてりゃ良いかって考えると..
それだけじゃいけないなとも思ったんだ。
 
食えりゃ良い、楽しけりゃ良い、だけじゃね、..
所謂モチヴェ-ションって奴で、今の時代と波長の合うもの、
そういった感覚を忘れて、ただoldiesってのは..
どんなに良い演奏が出来たって、いずれは煮詰まるに決まってる、
多少乱暴でも新しい奴等、若い奴等との接点を無くしてはいけない、
そう思ったのさ、。
 
それでハルヲフォンを一緒にやめた高木と、
若いメンバーを捜して一緒にlivehouseに出よう
と言う事になって..昼間に当時のLIVEHOUSEにメンバーを見つけに出歩いた訳だ。

高木は

当時ストライクなんてBANDをもっていて、
他にもGIRLSのイリア(後のジューシーフルーツ)なんかとも
LIVEHOUSEに出演していたし
ターちゃんやこういちが作ったPINUPSのプロデュースなんかやってた
小林はマネージャーだった巻と事務所を作ってCCBを手掛けていたし、
近田もソロアルバムを作ったり、PRODUCEや
自身の新しいバンドの展開を考えていた頃かな
 
まあそういった事で
週一の休みの時は当時のバンド..色々と見て回ったんだけどね..
どうもね~今一つ..
確かに規模も人気も集客のエネルギーも当時とは比べ物にならない程
制作や体勢も整っていて、考えられない程、カッコよくは見えたんだけど
 
何て言うかな..俺はバンドを色々とやりすぎていたから..
そういう面ではある意味、感じでしまうんだ
粋がってるのもいたし、威勢の良いのもいない事は無かったんだけど、
まあね..新しいと言っても構造的には何も変わっていなかったし..
テクニックや歌に関していえば昔のバンドの方が数段上手かったし
いやむしろ冒険的でオリジナリティがあったような気もした。
 
まあ..そんな事思ったって..バンドってのは頭でこんな感じ..なんて想い描いたって
その通りに行く訳が無い..演奏しながら、ステージ,RECを重ねて化けていくもの..
そう想う訳ですわ、人がやる事だしね..
まあ..そんな反動で自分以外は全部機械、なんていう方法も産まれて行く訳だけど。
 
エイジとヒロ

そんなバンドの中で一つ、おっなかなか良いな.って思うのがあって、
声を掛けてみたんだ、
それは後のSUPER BADってバンドになる高田英司と大金康博、
奴等はまだ高校生だったけど、なかなか乗りの良い演奏をしていたんだ..
勿論ハルヲフォンの事は知っていて、
そんじゃ..と言う事で一,二度程、LIVEHOUSEで演奏した。
 
まあ..今の歳になってみればスタンスの取り方や、
育て方も少しは理解出来ただろうけど..
どうも、その頃の俺はあんまり納得は出来なかったよ(笑)。
 
で、フォーライフに頼んで二人のデモテープ作ったら
レコード会社会議の席上に 
どこで聞きつけたか突然田辺さんが現れて
「これうちに欲しい!」
田辺エージェンシー!
ううっ、私に阻止は.....ですわ
いや、私と高木は勘弁ですぜ
今更大手芸能プロダクションはww
なんの為にバンドやめたのか解らなくなっちゃうしね
 
その後エイジとヒロは「DUO」と言う名前で
フォーライフから吉田拓郎の曲でデヴューしたんだが、
すぐ解散したのかな1、2曲で、....っま..今でもその事は思い出すと心が痛むんだ、

何故心が痛むかっていやあさ..どんな名目だったかは忘れたけど..
俺の口座に多額の現金が支払われた訳なんですわ。
 
英二は時々「よしみさんに田辺エージェンシーに売られた」なんて
冗談で言う事もあったらしいが
そんな事はしないよ、俺もビックリした位なんだ
まあ..それからなるべく若い子には音楽の仕事の話はしないようにしている
 

権利関係

いや..いくらそう言う時代になって来たとは言え..
いや..勿論勉強はしなくちゃならなかったけど、どうもな~、
ラストバンドマンはそういのは性に合わない所があるんすわ(笑)、
いや、もう今の時代はアーティスト!、
ミュージシャンならばそういう部分もきちんと押さえられなきゃならないんだけど..
俺は..ラストバンドマン(笑)だから..。
 
で、やっぱり冒頭のどれを選ぶかって部分で..現役..
これにこだわりたいな..ってそう思ったんだ、
無理が有れば有る程、面白いかなって..感じですか。

でも、前の事もあったし、やっぱり等身大のバンドが動きやすいかなとも思った、
昔からの仲間なら説明する必要もないしね..
時代が変わって行く、そいつは一人だけの力じゃどうにもならないかな..って
そう思った訳です、..。


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