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鼓曲萬来

Rock'nRoll My Way ⑭ ラストバンドマン2

和太鼓に会う

でね.此の時期俺は自分のこれからを決定する重要な出合いがあった訳、
それは和太鼓との出会い..西野との出合いさ..
奴は和太鼓とオーケストラ、合唱団との融合を考えていた所で、
奴からの誘いがあったんだ.
.
最初に会った時西野は俺にこう言ったんだ..
「貴方恒田さんですよね..僕は西野って言います..
僕は貴方みたいなタイプは大嫌いなんですけど..
一緒に和太鼓やりませんか?」って(笑).
.なんでも奴のプロデューサー的な立場の方が..
恒田さんにお願いしてみたらどうだ..って感じで嫌々コンタクトをとったそうなんだ。
 
最初の印象は誰でもそうだろうけど..「和太鼓ね~?」だ...
当然、所謂70年代に、日本的な物、日本的な物の考え方..日本的なセンス..
その代表みたいな..、(笑)
それにイメージとして修行、汗、体育会..って感じだったかな。
 
まあさ..西野にしてみりゃ..
俺とは反対に、「ロックの人とですか~」、って感じだったのかも

でも..その俺の狭い了見、考え方は一瞬にして吹き飛ばされた..
勿論その時代に日本で演奏しても、そうは思わなかっただろうけどね...
今迄には考えてもいなかった舞台..そいつは外国!

西野とハワイやサンフランシスコで演奏すると..信じられなかったよ.
全員スタンヂィングオヴェーションの嵐さ...「えっ..えっ..なんで?」そんな感じだった。
 
村八分やハルヲフォンの時に


漠然と思っていた事が現実となった訳だ..
いつも外国のミュージシャンの演奏を見て音以上になにか説明出来ないんだけど..
血というか..やっぱりどこか借り物の意識はあったんだ、
本物が来たらROCK,R&Bって言ってもやっぱり..前座が良いところかな?って。

英語の発音から来る高揚感とかリズム感がやっぱり..あるんだよ。
 
処が..此処では(サンフランシスコ)..あの俺が憧れたメッカ、ハイトアシュベリーでだぜ、
奴等が尊敬の眼差しで俺達を見てる..信じられなかった、
で、日本では味わえなかった雰囲気、そいつはね...まさしくね..
本物のROCKって事なんだ。
 
それで一瞬にして..開放された気がしたんだ..ああ..そうか..そうだったんだ..
どこかに日本という物とROCKするって事に形の面だけ引っ掛かり
こだわりを持ちすぎてしまって..、
囚われを持って結局、本質が見えなかったかな?って..
本当に目からうろこが落ちるような思いだったんだよ。

そうさ..日本人から見りゃ..おれは和太鼓(笑)人格も含めて..
しかし奴等から見ればさ..俺はエスニックなミュージシャン、アーティスト、
そして紛れも無くROCKER!なんだよ..
そして使っている楽器が「TAIKO」なんだって事さ...
俺のやっている和太鼓は最も日本的な考え方の偏見に満ち溢れていて、
実は尤もそういった感覚から遠い楽器なんだって事さ...簡単な事さ。。
 
漠然と
何か先がちょっと見えたかな..って感じで、
此の頃俺は夜OLDIES HOUSEでDRUMSを、
昼間は和太鼓の師匠の処に弟子入りしてお稽古を付けて貰う、そんな日々だった..

時代は80年代になろうとしていた。
 
Still Goin' On
 
僕は相変わらずROCK'N ROLL HOUSEでの仕事は続けていた、
前に書いた通り和太鼓の演奏も続けながら..
ハワイ、サンフランシスコ、ニューヨーク、中国、モンゴル、
そんなおそらく70年代では考えられなかっただろう国での演奏も..
多くの刺激と思いでに残っている。

いつか、此の和太鼓に色々な要素を加えてアメリカ、アジアだけでなく、
ヨーロッパにも行ってみたい、そんな考えも持っていたんだ

まあ..しかし..当時は未だ和太鼓だけに専念と言う状況ではなかったので、
箱での演奏の他に..色々と演奏以外の仕事もやるようになっていたんだ、
まあ..前にも書いたけれどあまり得意な分野ではなかったんだけれど...
 

杜の都

そんな頃
ラストバンドマンは北に旅立った事が有るんですわ..
スーパースターにはトラを入れて
やっぱり演奏してなんぼ.って感じですかね(笑)、
 
一つ面白い話が来たんだ、
それはKENTOSの系列で、
昔のケントスがカーニヴァルと言うGS専門の店にチェンジしたので..
「毎週水曜日、お前バンド作って入ってくれないか?」という依頼..
ヴィレッジシンガースのドラマー、林さんからの依頼だった。
 
その店「carnival」は六本木にあって、
月曜日~日曜日は芋洗い坂のSUPERSTAR
そして週一の水曜日は「カーニヴァル」そんな感じだったかな..
 
まあ..面白い物で、前のオールヂィハウスもそうだけど..今度はGS,
まあ..お手のものさ..と言うか、もう此の時代にはネオGSなんて世界も出現して..
あの俺の高校時代によく聞きに行ったGS、JAZZ喫茶、
それと60’S LONDON MODSなんて感じがひとつになった感じで..
少しずつその手のバンドも増えて来たって訳ですわ。
 
で、早速、メンバーを募ってその店に入った訳です、
カーニヴァルには所謂ホームバンドがあって
そのバンドが大体の目玉を演奏する訳ですから、
我々はその選に漏れた曲だけをpick upしてやれば良い訳ですから、
そりゃ楽しい訳です、もう渋い曲だけやりゃいいんですから(笑)
 
例えばザ.リードの「悪魔がくれた青い薔薇」とかボルテージの「エミーマイエミー」とか
寺内タケシ&バニーズの「東京のサンセット」とかです(笑)、
 
しかし..なんて言うか..ホームバンドの大ヒット曲中心のステージより、どちらかというと..
我々がやる日の方がコアで、つまりjazz喫茶の雰囲気は出る訳ですな..
不思議なもので、勿論我々の日は外国もののカヴァーなんてのも
特別に許可が降りていたって訳です。
 
メンバーは後にスーパーバッドなんて言うバンドを結成する高田英二(Vo)、
そしてキャメロットなんてアイドルグループにいた宮本(Vo)、
ベースにナッツベリーフィールドってC&wのバンドをやっていた浜田、
ギターはタスクとヒッピーヒッピーシェイクスなんてバンドをやってた眼鏡の子
(名前忘れたごめん)が交互に、そんなメンバーで演奏していた訳ですが...
それが思いもかけぬ方向へ展開して行く訳です、
 
これが..そう、今思うに、もうその当時さえGSを見た..
或いは一緒に演奏した、なんて経験を持つバンドマンなんて、
殆ど引退しているか、演奏なんて当然きちんと出来る方等は希薄になっていたんでしょう...
その林さんから、次の依頼が来たって訳ですわ。
 
まあ..話の内容はこういう感じだったんだ...
 
「実は仙台にGS専門のLIVE HOUSEが一番町に出来る事になって..」  
俺「へ~凄いじゃないっすか」  
「それで..バンドのメンバーはいるんだけど、GSだろ..、
あの感じは誰か教える奴がいないと、それからバンドリーダーも欲しいんだ..」  
俺「まさか..」  
「そうなんだ..そのオーナーもお前のLIVE見て..
あの人にお願い出来ないか?..って話なんだ」  
俺「せ...せ..仙台っすか!」
 
条件はバンマス、プロヂュ-ス込マンション付きで破格の呈示、特別待遇があって..
そして毎週土曜日はゲストを東京から入れるから、
兎に角お前、仙台に行って3か月後のオープン迄に
そのバンド形にしてくれ!..頼む..って事だったんだ..どうします?もし貴方なら(笑)。
 
19才の時に京都に1年間いたのを思い出したよ..
正直言って..
でもさ..そういうきっかけってのは
次の動きのエネルギー触媒としてはいい材料かな..って
そうも思った..
いつも話は唐突にやってきて唐突に去って行く..
つまり..チャンスにしろなんにしろ、そういうのは前髪だけで後ろはつるっぱげ、
つまりさ..振り返って考えてしまったらもう掴む所はないって事なんだ..
 
しかし..音楽的に安定した時期だったらやっぱりNOだったかな..
解らんけど、で、躊躇していたら
そのオーナーがわざわざ東京迄出て来て「お願いしたい」って...
まあ..どれ位いられるかは解らないけど..「それじゃ」..って事で
俺は又列車に乗る事になった訳さ..今度は北か....うむ。
 
.. この時はもう夜行列車ではなかったよ...
新幹線だ..ほんの僅かな時間で..そこには到着出来る..
ただね..只一つあの時と違ったのは..
俺はもう30をちょっと過ぎているって事だけだったかな...。
 
仙台カーニヴァル

一番の繁華街、一番町のビルの7階にその店はあったよ..
キャパはそうですな300?、
まあ此の手にしては豪華で、なんでも?億かけて作ったそうだ
で.ステージも..ドラムは奥に山台が組んであって
その上に俺が頼んであったドラムは注文通りSETされてあったんだ、
 
で、店長が挨拶に来て.俺は早速、山台に乗って床を蹴ってみたんだ..
 
「だめだ..」つまりさ..空洞な訳ですわ床の下が..
まず..赴任最初の仕事は舞台の貼りを全部はがさせて..
下に厚いゴムを敷かせる事から始まった、地下の店ならともかく7Fですわ..
音出したら..低音はみんな床下に吸われちまうに決まってます、
そしてこういう踊れる店は低音が命、
下手すりゃ下の階から苦情なんて危険性も充分考えられる訳ですわ。
 
THE JUPITERS

早速俺はバンドの練習に入った、
課題曲はそう300ってとこかな..それをあのGSのイメージに迄昇華させて
3ケ月後のオープンに間に合わせる作業、..
こいつはかなり苦労するな..そういう印象だった、
つまりさ..のりから教えなきゃならない、振り付けも..滅入ったね..
当然彼等はGSなんて見た事もないだろうし、譜面通りにまとまったって..
仕事にはなりゃしない、どう教えていけばいいか..毎晩頭を抱えてしまった訳だ..
 
まあ..事務所からも言われていたんだろうな、
メンバーは従順で言われる事には素直に従って来た...(笑)
なんかさー、本当に昔のバンマスのドラマー、
そいつを彷佛とされる感じなんだろうな..
まあ..毎日細かい所をチェックしながら、
オープンに漕ぎ着けた訳さ..衣裳もミリタリーだぜ。
 
店は連日盛況の感じで一番町のホステスが客をどんどん連れてくるって感じ(笑)、
でも、やはり俺自身は煮詰まった..
 
何故ならさ、俺にとってのGSは勿論懐かしいあのhit曲の数々、
ザ、タイガース、テンプターズ、スパイダース!ってのも勿論あるけど..
あの学生服を着て食い入るように見つめた、良質の演奏、
そして純粋な10代の俺、何よりも音楽を生で教えてくれた
そんなクリームソーダの匂いと怪しい小屋の雰囲気、そんな処に有る訳で..
決してアルコールと化粧の匂いで充満した
「ああ..此の曲知ってる~..」そんな物とは程遠い処にあるような気がしたんだ。
 
でも只一つの救いは毎週土曜にもっちんやきっちゃん、
時さんなんかが代わりばんこに来てくれる訳さ..
もちろん岡本信さんや真木ヒデトさんなんかも..
つまりもうピンでフロントに立った時mc含めて..どんどん盛り上げて貰える訳さ..
こいつは教えようがない、これ以上は、もう自分で開拓していかなきゃならない領域、
もうここまでかなやれる事は..俺はそう思ったよ、そこに赴任して1年弱って感じかな。
 
で、オーナーに相談して..俺は東京に帰る事にした...
後任?..まあ.こういう店はさ..やっぱり土地感っていうか..
ハコがある場所の人が良い訳です..
で、.仙台..後任はガリヴァーズのヴォーカルの人に決まったって訳だ。
 
普通そういう話はなかなかうまくまとまらないんだけれど..此の時はすっきりと..
何故ってさ..オーナーにしてみたって、いつ東京に戻るか解らないバンマスより
土地に居る人の方が良いに決まってるからですわ。
 
まあ..だけど..一年位だけだったけど..
メンバーは「バンマス~東京に戻られるんすか~?」なんて..
いかんよね..ラストバンドマンに情は..
「まあ..後は自分達で工夫しろ、新しいバンマスもよくgsの事知ってるし、
そうだな..最後に一つだけ言っておく..
目が醒める時は誰でも一人で起きれるものさ」..
そう言い残して..俺は仙台を後にした..勿論ヒッチハイクじゃないぜ..新幹線でね..。
 
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