
-----------------------------------------------------------
目次
はじめに
1.ビキニ環礁におけるアメリカの核爆発実験と第五福竜丸の被爆
2.寄港した第五福竜丸が起こした波紋
3.声を上げ始めた主婦たち
4.原水爆禁止世界大会開催へ
おわりに
-------------------------------------------------------------------
はじめに
2月18日、NHK総合「その時 歴史が動いた」で放送の、「3000万の署名 大国を揺るがす〜第五福竜丸が伝えた核の恐怖〜」の案内を兼ねて、「世界に核廃絶を発信させた第五福竜丸の被爆」の記事を掲載しました。ところが、放送を視聴して、この一件は、私は知らなかった重要な意義があったことを知りました。帰国した乗組員達の健康被害から、それ以前はアメリカの占領政策によって知らされていなかった、被爆による放射線障害の実態を国民が知ることになりました。放射能汚染で海の魚が食卓から消え、汚染された長雨が降り続く中で、貧しくても安心を求める一主婦からの投稿を契機に始まった、新聞紙上の意見交換が原水爆禁止を求める署名運動に発展し、それが翌年の第一回原水爆禁止世界大会の開催へと発展して行ったのです。以前掲載の記事を大幅に改訂して掲載します。なお、この番組は2月24日(火)午後4時5分から総合テレビで再放送されます。
1.ビキニ環礁におけるアメリカの核爆発実験と第五福竜丸の被爆
第二次大戦終結後も、アメリカは旧ソビエト連邦の脅威に備えて核開発を続け、マーシャル諸島近海のビキニ環礁で原爆投下実験を続けていました。1954年3月1日、アメリカは破壊力で原爆をはるかに上回る水爆実験を実施しました。この実験(キャッスル作戦・ブラボー)はアメリカが初めて行った水爆実験で、起爆剤のプルトニウム239と重水素化リチウムをウラン238で囲い、重水素化リチウムに核融合を起こさせたものです。その威力は広島・長崎級原爆の約1,000倍(TNT火薬20キロトン相当)と推定され、爆心の海底に直径2 km、深さ73 mのクレーターを生じました。水爆の開発・製造を急いだアメリカの想定を3倍も超える核融合出力が、プルトニウム239の核分裂とウラン238の部分的核分裂で生じた放射性物質で汚染されたサンゴ礁の破片を飛散させました。焼津市のマグロ漁船・第五福竜丸はアメリカが指定した危険水域からおよそ 30 km離れた海域で操業していましたが、強い放射性を帯びた降下物(死の灰)を数時間にわたり受け続けました。乗組員23名全員が被爆し、当然、周辺のマーシャル諸島の島民やサンゴ礁をはじめとした生態系にも被害が及びました。
2.寄港した第五福竜丸が起こした波紋
2週間に焼津に帰港した第五福竜丸の乗組員の多くが、下痢や火傷により治療を要する状態にありました。これがメディアを通じて報道されたことで、放射線障害の実態が知れわたることになりました。信じがたいことですが、原爆投下後9年を経た当時でも、多くの日本人は広島・長崎での熱線と爆風による被害を知っていても、人々の放射線障害による苦しみを知らずにいました。原爆被害に関する情報は、占領政策の妨げになると判断されて、占領軍の検閲により報道されていなかったのです。
日米政府は早速沈静化に動きました。アメリカ原子力委員会のストローズ委員長は実験の成功と継続の声明を発表し、日米安全保障条約に縛られた日本の岡崎外相は実験が悪いものと印象を与えたり、実験を阻止するような態度は取ったりしたくないと語りました。しかし、日本の科学者達はメディアを通じて危機感を訴え、メディアも乗組員達の病状を詳しく報道し続けました。放射能で汚染されたマグロ以外にも、汚染の危惧から魚の買い控えが始まり、当時の重要なタンパク質食だった魚が食卓から消えて行きました。高く吹き上げられた死の灰は日本の上空にも飛来しました。1954年は例年になく長梅雨で、アメリカの原爆実験継続の影響で、5月中旬から6月まで強い放射能を含む雨が降り続きました。
3.声を上げ始めた主婦たち
日々の生活に閉塞感が漂う中で、食卓をあずかるある主婦からの投書がきっかけで、新聞紙上で安全に暮らしたい女性達の意見交換の輪が広がり、やがて女性達の原水爆反対署名活動が始まりました。各地で自然発生的にはじまったため、体裁も用紙もまちまちでした。誰もが最初から進んで署名してくれたわけではありませんでした。署名して何の意味があるかの問いかけに、ある女性は「黙っているよりは、はるかに効果があります。沈黙は賛成を意味するからです」と答えたそうです。
次第に共感の輪が広がり、署名がなだれを打ったように集まり始めました。杉並区では主婦達が中心で活動開始後、2ヶ月で人口の7割に当る27万人分集まりました。主婦たちは、全国で行われている活動をつないで更に大きな輪にしたいと、数千万の署名集めを目指して、原水爆禁止署名運動全国協議会趣意書を起草しました。
広島、長崎の被災者の動向についての関心が盛り上がり、新聞も白血病発症者が続出する状況を伝え始めました。1954年の8月6日の広島平和大会には、前年の7600人を大きく上回る2万人が参加し、翌々8日に開催された原水爆禁止署名全国協議会結成大会に持ち寄られた署名は、450万に上りました。
4.原水爆禁止世界大会開催へ
8月末、無線長だった久保山愛吉さんが昏睡状態になり、9月23日に亡くなったことで、人々の怒りが更に高まって署名が続々と到来し、翌年8月6日に広島で署名を結集して世界に訴える目標が掲げられました。沈静化を画策した日米両政府は、1955年1月4日、補償問題で合意を発表しました。アメリカが日本政府に200万ドル(当時の為替レートで7億円あまり)を一括で支払うというものでしたが、実際は法的な責任は棚上げにした見舞金で、日本側はその後の一切の請求権を放棄した内容でした。
同年1月19日、平和活動に取り組む世界の知識人達がウイーンに集結した会議で、原水爆禁止全国協議会の安井 郁事務局長が、世界各国での原水爆禁止署名活動を呼びかけました。日本全国でも、男性達も協力して署名活動が継続されました。しかし、アメリカは2~5月にかけて15回も核実験を実施しました。
1955年8月6日、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開催されました。この場で安井事務局長は、署名総数が31,583,123に達したことを報告しました。これは、当時の成人人口の半数以上に達したものでした。世界各国で6億以上に署名が集まっていることも報告されました。世界各地で、HIROSHIMA DAYと名付けた原水爆禁止を訴える集会が開かれました。
おわりに
番組内容と重なりますが、被爆者支援を求める声の高まりで1957年、国は「原爆医療法」を施行しました。現在でも被爆者の認定を巡る論議が続いている不備なものでしたが、何もなかった従前からみれば、一歩踏み出したと言えるでしょう。また、1963年、モスクワでアメリカ、ソ連、イギリスが大気圏中での核実験を禁止した部分的核実験禁止条約を締結しました。地下核実験を含む全ての核実験と使用が禁止されるべきですが、市民達が声を上げたことで、核兵器開発に一定の制約がかけられたことになります。対人地雷禁止条約(1997)、クラスター爆弾禁止条約(2008)も国際世論が国家を動かして署名させたもので、部分的核実験禁止条約は日本が発信した最初の草の根の反核運動でした。
原水爆禁止運動は当時より沈静化し、その後の日本が唱えた非核3原則も形骸化しています。2月16日付毎日新聞夕刊の報道によると、アメリカのオバマ政権は核実験全面禁止条約(CTBT)に批准に積極的とのことです。日米安全保障条約を理由に、これまで国際舞台での核廃絶に消極的だった日本政府も、この機会を捉えて国際社会でリーダーシップを発揮して欲しいものです。
追:第五福竜丸は江東区夢の島公園内に、都立第五福竜丸展示館として繋留されています。係留されていても、第五福竜丸は被爆の生き証人としての航海を続けているのです(この記事作成に特定非営利活動法人 人権・平和国際情報センターの資料を参考にしました)。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます