COCCOLITH EARTH WATCH REPORT

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東西冷戦のさなかに南ベトナムに供与されたアメリカ製原子炉の辿った歴史

2015-08-01 00:26:55 | Weblog

はじめに
 7月20日に放送されたBS1スペシャル「極秘指令・ウラン燃料を回収せよ~戦火の原子炉 40年目の真実」は、スリリングな展開ばかりでなく、原子力との付き合い方やアメリカの戦争について考えさせる内容でしたので、視聴記にまとめ、若干の考察を加えました。8月2日の20時からBS1で再放送があります。

ダラット原子炉建設の背景と南ベトナム解放戦争
 東西冷戦さなかの1960年、南ベトナムの高原避暑地ダラットで、アメリカ製研究用原子炉(出力500kW)の建設が始まった。当時のベトナムは北緯17度線で南北に分断されており、南はアメリカが肩入れするゴ・ディン・ジェム大統領の統治下にあった。アメリカは原子力の平和利用を掲げて関係の深い国々に研究炉を供与してきたが、共産圏拡大の防波堤と位置づけていた南ベトナムは特別な存在であった。当時の国務省高官の証言によれば、アメリカがどれだけ南ベトナムを信頼し、最終的に勝利すると信じていることを北ベトナムに見せつけるためだったという。ところが1960年に結成された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)がゲリラ戦を展開、戦線はエスカレートして1965年に米軍はベトコンを支援する北ベトナム爆撃を開始、8年間で延べ260万の兵力を投入、泥沼化した戦いは大量の民間人を巻き込む大義なき戦争と化した。1973年1月、ニクソン政権は南北ベトナムと和平協定を調印、戦争に終止符が打たれたかに見え、アメリカ軍はベトナムから撤退を開始した。

ベトナム統一戦争勃発と核燃料回収作戦の起案
 ところがニクソン退陣後の1975年3月10日、アメリカの再介入なしと見た北ベトナムが17度線を超えて侵攻、10万の大軍が国家統一に向け破竹の勢いで南下を開始した。3月24日、事態を憂慮したキッシンジャー国務長官がサイゴン(現ホーチミン)のアメリカ大使館と緊急協議、国防総省の協力でダラットの研究用原子炉にあった核燃料棒を回収する方針を決定、直ちに作戦の検討が始まった。ダラットの燃料棒は20%濃縮ウランと水素化ジルコニウムの合金で、当時のソ連にない最新型の燃料棒であった。当時の国務省高官によれば、ダラットの燃料を使ってすぐに核兵器を作れないが、海外に提供した核物質が、戦争や動乱に巻き込まれたときにどうするかが問題であった。どこで作られようと核物質に違いないが、アメリカ製核物質が共産主義者の手に渡ったら世論はどう受け取るかが深刻な問題であった。北ベトナムもダラット原子炉の確保を目指していた。

核燃料回収作戦の実行
 3月24日、回収を急遽命じられたアイダホ国立研究所の原子力の専門家ウォーリー・ヘンドリクソンとジョン・ホランはサイゴンに向かった。和平協定でアメリカは表立った軍事作戦はできないので、軍の護衛なしの隠密行動を求められた。もし回収に失敗したら燃料が誰の手にも渡らないよう炉心にコンクリートを流し込め、若しそれも不可能だったら原子炉をダイナマイトで爆破しろと指示された。
 二人は3月27日、ダラット原子炉に事前の偵察に向かった。ホランの残した詳細な記録によると、原子炉から5キロのカム・リー空港着、原子炉に着くとベトナム人所長が出迎えたが守備隊は一人も見かけなかった。施設に通電があり、天井のクレーンも正常に作動、炉心のプール中に燃料棒67本が確認された。原子炉は稼働しておらず、回収作業ができる状態だった。放射線は水中で遮断されているが、水面から出ると遮るものがなくなる。試しに炉心から燃料棒を1本抜いて計測すると、距離55センチで1時間あたり平均2レム、現在の単位で20ミリシーベルトであった。【参考:日本の放射線従事者の年間許容線量は50ミリシーベルト】。二人は一人あたり100ミリシーベルトまでの被爆を受け容れる覚悟を決めた。北ベトナム軍主力部隊は刻一刻とダラットに迫り、陥落は時間の問題になっていた。
3月30日、回収作戦実施。ダラットの北20キロの基地が陥落し、早ければ16時にダラットに達するとの情報もあった。翌31日13時にカム・リー空港に空軍のC-130輸送機が到着、15時に出発することになっていた。
 作業中の放射線対策として、コンクリートの遮蔽壁を作り、ベトナム人協力者2人と4人交代で作業。燃料棒を引き抜いて保管容器に入れる一人以外はその陰に隠れた。引き抜いた燃料棒を大きなピンセットのような器具でつかみ、距離を確保しようとしたが遠隔器具は扱いにくく、作業に時間がかったので、時間短縮のため抜き出した燃料棒はグローブをはめた手でつかみ、できるだけ早く格納容器に投げ入れた。線量計は数値が高いと低い値を示す傾向があり、途中から被爆線量が分からなくなった。67本すべてが抜き取られ、12個の格納容器に収まったのは31日午前2時だった。爆破は回避された。
 ヘンドリクソンは「自分は科学者で軍事のことは分からず、爆破なんて考えられなかった。ダラットは観光地で、大学もあり、豊かな農村地域でもあった。普通の状況下にある人間なら爆破など思いつきもしなかったでしょう。私はそうことを正当化できません。もしやっていたら、戦争犯罪になっていたと思います」と証言している。

ベトナム戦争の終結とダラット原子炉の再稼働
 4月2日 ダラット陥落、4月30日、北ベトナム軍戦車隊が南ベトナム大統領官邸に突入、サイゴンが陥落し、ベトナム戦争が終わった。1976年、ベトナム社会主義共和国が誕生、ボー・グエン・ザップ将軍が副首相兼国防相に就任、ダラット原子炉の再建を命じ、旧ソ連で原子物理学を学んだファン・ズイ・ヒエン博士が責任者に就任した。ザップ将軍に声をかけられたとき、ヒエン博士は「核兵器を作れ」と言われたらどう答えようかと悩んだが、そんな話ではなかった。ザップ将軍は新しい国建設のためにダラット原子炉の再建を強く望んでいた。戦争に勝ったが核兵器の開発を目指すことはなかった。

1984年、旧ソ連の技術と核燃料により、ダラット原子炉は再臨界に達し、今もベトナム唯一の研究炉として動き続けて、ベトナム戦争を知らない世代が原子力を学んでいる。政府は原子力を将来のエネルギー源と位置付け、技術者の養成を進めている。

ベトナムは福島の事故から学ぼうとしている
 ザップ将軍は2013年102歳で死去した。ヒエン博士は、「ザップ将軍は、ベトナムの原子力のレベルはまだまだだと考えていた。能力がない、人材も不足している、だから自力をつけなければならない、決して急いではいけないというのが遺言だった」と語っている。特筆すべきは、ヒエン博士が「先進国日本でも福島の事故は起きたのです。事故の後処理に今も日本は苦労しています。ベトナムはそこから学ぶべきです」と語ったことである。番組は、「ベトナム政府は去年予定されていたロシア製原発の着工を2020年まで延期すると発表・安全性と経済性を見極めようという慎重な姿勢も鑑みえる。戦火の時代を生き抜いたダラットの原子炉、その歴史は原子力という技術をめぐるいくつもの問を今も私たちに投げかけている」と結んでいる。

考 察
 無事に核燃料棒が回収され、原子炉の爆破が回避されるというドラマチックな展開以上に感じたことが3点ある。
 第一はベトナムの原子力の責任者ヒエン博士が語った、先進国日本で原発事故が起き、後処理に今も日本は苦労していることから学ぼうとする姿勢である。ベトナム政府は去年予定されていたロシア製原発の着工を2020年まで延期し、安全性と経済性を見極めようという慎重な姿勢をとっているという。事故当時国の日本は、原発輸出のトップセールスを展開し、国内原発の再稼働も秒読みの段階にある。安全性より経済性重視の姿勢が見え見えである。ベトナムが原発大国への道を歩まないよう祈りたい。
 第二は原子力に依存することの倫理性である。ヘンドリクソンとホランとベトナム人協力者達は、被爆線量を度外視して燃料棒の回収作業にあたり、原子炉爆破という非常手段を回避できた。ウラン鉱採掘の現場から原子力産業は作業従事者の放射線被爆が不可避である。年間の許容線量に上限があり、それに達した者は作業を続けられず使い捨てにされる。作業従事者達の犠牲があるからこそ、大勢の人々が原子力利用の恩恵に与っているのである。そんな意味で、原子力依存の継続は倫理的でない。ドイツが脱原発に舵を切った理由もそこにある。
 第三はアメリカがベトナム戦争の教訓を生かしていないことである。アメリカはアフガニスタンやイラクに兵力を展開し、抵抗勢力の制圧を試みたが撤退後の現地情勢の不安定化を招き、当事国自体の存立を危うくしている。世界の安全保障環境は不安定化しているが、日本は集団的自衛権の行使容認よる自衛隊の海外派兵ではなく、平和憲法の理念を生かしたソフトパワーの展開を目指すべきであろう。

追:BS1スペシャル「極秘指令・ウラン燃料を回収せよ~戦火の原子炉 40年目の真実」は、8月2日の20時からBS1で再放送があります。未だの方はどうぞお見逃しなく。
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