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おフランス(aux France) その5

2008年08月04日 18時55分24秒 | インポート

サルコジと胡錦濤

支那に核を売ったユダヤの死の商人=サルコジ仏大統領

 CGNPCとの核開発のジョイントベンチャーAREVAは、また、CGNPC/支那広東原子力開発公社と核のテクノロジーを共有するジョイントベンチャーを創業し、支那におけるその他の核燃料炉の開発運営にも携わる予定である。今回の事業契約は、フランスのニコラス・サルコジ大統領と支那の胡錦濤主席とが、北京において調印した。今後12年間に支那各地に数十基の核燃料炉を建設する。

 チベット絡みで暴虐支那五輪に不参加など、単なる茶番であり、カルフールがデモ隊に囲まれようが、支那暴虐五輪の呪火を他国においても五星紅旗が取り巻き、いかに傍若無人の振る舞いを支那人がしようが、サルコジというユダヤの死の商人は、ベニスの商人のシャイロックよろしく金が全てであり、日本や東アジアで、支那の核兵器の脅威が高まろうが知ったことではないのである。むしろ、緊張の増大を金に変えてきたのが、死の商人、フランスのビジネスモデルなのである。

 何よりの証左は、サルコジの洞爺湖サミットでも見せた媚支外交と、その延長線上の、早々と表明した、暴虐支那五輪へのための訪支であろう。


サルコジ・ルージュ

史上最大の核開発の事業契約
 支那は、核燃料のウラニウムを確保するために、フランスの核開発会社AREVAと、「少なくとも今後14年間はアフリカ産のウラニウムを供給する。」という契約を結んだ。AREVAは燃料ウラニウムを供給するだけでなく、支那の広東省に2つの核燃料施設を建設・運営する契約も結んでいる。CGNPC(支那国営広東原子力発電公社)の核関連の契約は、80億ユーロ(120億ドル=1.32兆円)に達し、史上最大となる。前もって公開されていた情報によると、2基の核燃料炉に毎年600トンずつ、今後14年にわたって合計2万3千トン以上ウラニウムを供給することになっている。

支那(シナ)

 最大の貿易相手国で最大の援助国の日本に核兵器の照準を合わせ、恫喝外交と内政干渉と歴史捏造で、資金や技術をせびり取り、内政の矛盾から目を逸らさせるために、その恩人の日本を捏造により悪者に仕立てる反日教育をしている気違い国家が東北アジアにある。2千年ほど前には世界一流の文明国だったのだが、何度となく北方遊牧民族に支配され、混血が進んでいながら、過去の栄光(自らの栄光でもないのだが。)にしがみつき、周辺の国を蛮族と見下す中華思想に陥り、ほぼ古代から進歩がない国がある。名前を支那と言う。正にフランスの一卵性双生児である。

英語:China(チャイナ)、オランダ語:China(ヒーナ)、ドイツ語:China(キーナ)、ブルトン語:Sina(シナ)、フランス語:Chine(シーヌ)、スペイン語:China(チナ)、ポルトガル語:China(シーナ)、イタリア語:Cina(チナ)、ラテン語:Sinae(シーネ)、ギリシャ語:Κινα(キーナ)、

エスペラント語:Ĉinio(チニヨ);Ĉinujo(チヌヨ);Ĥinujo(ヒヌヨ)、インターリングア語:China(チナ)、ポナ語(トキポナ):Sonko(ソンコ)、

スウェーデン語:Kina(キナ)、デンマーク語:Kina(キナ)、フィンランド語:Kiina(キーナ)、チェコ語:Čína(チナ)、スロヴェニア語:Kitajska(キタチェスカ)、ルーマニア語:China(シーナ)、ポーランド語:Chiny(チーニ)、

ロシア語:Китай(Kitaj、キタイ)、アバザ語:Китай(Kitaj、キタイ)、カラチャイ・バルカル語:Къытай(Qytaj、キタイ)、カバルド語:Китай(Kitaj、キタイ)、オセット語:Китай(Kitaj、キタイ)、チェチェン語:Китай(Kitaj、キタイ)、クムク語(クミク語):Китай(Kitaj、キタイ)、タバサラン語:КІитІай(?i?aj、キタイ)、

チュバシ語:Китай(Kitaj、キタイ)、牧地マリ語:Китай(Kitaj、キタイ)、タタール語:Кытай(Qıtay、キタイ)、バシュキール語:?ытай(Qytaj、キタイ)、

トルコ語:Çini(チニ)、ザザ語:Çîn(??? 、チン)、ヘブライ語:???(Sîn、シーン)、アルメニア語:????????(Č?inastan、チナスタン)、アゼルバイジャン語:Çin(Чин、チン)、クルド語:???(Çîn、チン)、赤いクルマンジー語:Çînistan(Чиньстан、チニスタン);??????? (Çînîstan、チニスタン)、クルド語(ソーラーニー語):???(Çîn、チン)、クルド語(クルマンジー語):Çîn(??? 、チーン)、アラビア語:????? (a?-?īn、アシーン)、ペルシア語:??? (Čīn、チーン)、パフラヴィー語:????(Čīnī、チーニー)、ダリ語:???(Čīn、チーン)、タリシュ語:Чин(Čin、チン)、パシュトゥー語:??? (Čīn、チン);????(?atāy、ハターイ)、

コンゴ語:Tsunkwo(ツンクウォ)、

カザフ語:?ытай(Qytaj、キタイ)、トゥルクメン語:Hytaý(Хытай、ヒタイ)、ウズベク語:Xitoy(Хитой、シトイ);Chin(Чин、チン)、カラカルパク語:?ытай(Qytaj、キタイ)、タジク語:Чин(Čin、チン);???(Čīn、チーン);Хитой(Ĥitoj、ヒトイ);????(?itôy、ヒトイ)、キルギス語:Кытай(Kytaj、キタイ)、
アルタイ語:Кыдат јер(Kydat d'e、キダット・ドゥエ)、Китай(Kitaj、キタイ)、ハカス語:Китай(Kitaj、キタイ)、トゥバ語:Кыдат(Kydat、キダット)、

ウイグル語:?????(Hitay、ヒタイ);?????(Junggo、ジュングゴ)、ネパール語:???(Tsīn、ツィーン)、ゾンカ語:??????(rGya.mi、ギャミ)、チベット語:??????(rGya.nag、ギャナグ);??????? (Kru?.go、クルンゴ);???????(Kru?.hwa、クルンフワ)、モンゴル語:Хятад(Ĥjatad:ヒアタッド);Дундад улс(Dundad uls、ドゥンダッド・ウルス)、

ウルドゥー語:???(Čīn、チーン)、パンジャブ語:???(Čīn、チーン)、ヒンディー語:???(Cīn、チーン)、サンスクリット:???(シナ)、シンド語:???(Čīn、チーン)、グジャラート語:???(Čīn、チーン)、カンナダ語:???(Čīna、チーナ)、 マラヤーラム語:???(Čaina、チャイナ)、テルグ語:????(Čainā、チャイナー)、シンハラ語:????(Čīnaya、チーナヤ)、タミル語 インド、スリランカ、マレーシアほか ???? (Čī?ā)、ディビヒ語:??????(Ča'inā、チャイナー)、ベンガル語:???(Čīn、チーン)、

ビルマ語:?????(Tá?ou?、タヨウ)、タイ語:???(Čīn、チーン)、ラオ語:???(Čīn、チーン)、クメール語:???(Čin、チン)、マレー語:Tiongkok(ティオングコック);Cina(チナ)、インドネシア語:Cina(チナ);Tiongkok(ティオングコック)、ジャワ語:Cina(チナ)、ベトナム語:Trung qu?c(トゥルング・コック)、タガログ語:Tsina(ツィーナ) 

おフランス(aux France) その4

2008年07月15日 19時10分51秒 | インポート

フランスが1968年08月24日にファンガタウファ環礁で初めて行った二段階熱核実験、コード名「カノープス(Canopus)」 恐ろしいことに昼間の写真。

 フランスは、発電の8割を原子力に頼る「核大国」と、核兵器も含めて自称している。また、フランスは、核燃料サイクルをほぼ確立している唯一の国であり、その中核的な役割を担っているのが、原子力庁(CEA)とAREVA社である。原子力庁は、公社のような組織で、原子力発電の推進役だけでなく、技術開発の実施、核の軍事利用まで所管する人員1万5千人の巨大組織で、AREVA社は、ウランの採掘から再処理、MOX燃料化まで、核燃料サイクルを実施しているフランスの国策会社(政府の持ち株比率は約8割)で、こちらも、全世界で6万1千人の人員を抱えている。

フランスの核拡散の大罪

 1985年にレバノンで起きたフランス人誘拐事件や1986年のパリでの連続爆破事件、11月17日にはパリでルノー総裁のジョルジュ・ベス(当時58)が射殺された一連のテロ事件の背景には、かつてフランスが支援していたイランの核開発プロジェクトがある。
 1960年、核実験に成功したフランスはその技術の売り込み先としてイランを選んだ。1963年から技術供与を始めたフランスは1968年の核拡散防止条約(NPT)にも独自外交を理由に署名せず、核を売り続けた。フランスはその後、イラクとも技術供与の約束を取り付けたが、イランでは、モハンマド・レザー・パフラヴィー(ペルシア語::???? ??? ??????、Mohammad Rezā Pahlavī、パフラヴィー2世、亡命前後の報道では「パーレビ国王」と呼ばれることが多かった)前国王が失脚しホメイニ政権が成立すると、フランスはイランとの契約を凍結。ローン返済や濃縮ウランの供給などイラン側の契約履行要求にフランスは応じず、1980年に勃発したイラン・イラク戦争ではイラクに武器供与していたフランスに対するイランの反発は最高潮に達していた。

 イスラエル初代首相のデビッド・ベングリオンは、1948年の建国当初から、アラブ諸国に囲まれた自国の安全保障には核兵器の保有が欠かせないという信念を持っていた。核開発を自国で進めようと考えたベングリオンは、核技術を保有していたフランスに接近。アルジェリアの独立問題を抱え、エジプトのアラブ民族主義を警戒していたフランスは、中東で孤立するイスラエルへの支援が自国の利益になると考え、核開発支援を決めた。イスラエルは南部の町ディモナに、パリ近郊にある施設をモデルにした原子炉建設を開始。イスラエルを訪れたアメリカの科学者がイスラエルの核保有は間近であることを訴え、世界中に衝撃が走った。建国間もないイスラエルに対して、フランスが科学者や技術者を派遣し、原子炉や濃縮ウラン、プルトニウム抽出などの技術を提供。建国間もないイスラエルで、28歳という若さで核開発プロジェクトのリーダーに任命されたのは、後に首相となるペレスだった。

 冷戦時代に核兵器で同盟国を囲い込もうと目論んだアメリカに対して身分不相応にも反感をもったフランスは、独自外交を取り、1966年にNATOの軍事機構から離脱、ところが、情けないことに,テロに屈し、核拡散という人類に対する大罪を犯した。

フランスの核開発の歴史

 フランスには、放射性元素であるラジウムとポロニウムを単離し、科学研究のために無償で提供した、ピエール・キュリー(Pierre Curie)とポーランドからの帰化フランス人のマリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)夫妻がおり、彼らの娘のイレーヌ・ジョリオ=キュリー(Irène Joliot-Curie)と夫のジャン・フレデリック・ジョリオ=キュリー(Jean Frédéric Joliot-Curie)は人工放射性元素を発見している。夫フレデリックはフランス共産党員で、イレーヌは婦人同盟員である。彼らキュリー家の4人がいなければ、広島・長崎での原爆の悲劇はなかったと言える。

 1941年、英国もウランの核分裂が、莫大な破壊力をもたらすことを知り、原子爆弾を3年以内に開発するとの方針を打ち立てた。このときアメリカから原爆の共同開発が提案されたが、英国はこれを蹴り、独自開発しようとしたが、対独戦が激しさを増すにつれて、今度はアメリカに共同開発を逆提案した。しかし、すでにアメリカはマンハッタン計画が軌道に乗っていたため、提案は無視され、英国はカナダとの共同開発の道を選んだ。1943年、ルーズベルト(米大統領)、チャーチル(英首相)、キング(カナダ首相)の3人がケベック協定を結び、原爆の組み立て、ウラニウム235、プルトニウム単離などの技術を共有することとなった。これは1945年のルーズベルトの死去により協定は霧散した。
 フランスは、大戦勃発直後にノルウェーから重水を、ベルギーからウラニウム酸化物を輸入して核開発を始め、ヴィシー時代には多くのフランス人がイギリスに亡命しており、とりわけ、フランスの核開発の中心的人物に、ドイツからの帰化フランス人、ハンス・フォン・ハルバンとロシアからの帰化フランス人、ルー・コワルスキーがいるが、このとき、この2人は英国およびカナダとの核兵器研究プロジェクトに参加していた。このことから、フランスは水面下でその後のアメリカ、英国の核開発の研究成果を手に入れられる環境にあった。フランスが核分裂の概念を得たのは1939年と意外に早く、フランスでは第2次大戦終結後まもない1945年10月には、原子力研究を統合的に進める国家機関として原子力庁(CEA)が設立された。戦争開始直前のフランスの核分裂研究を指導的立場におり、ナチス占領下はレジスタンス運動に身を投じていたフレデリック・ジョリオ=キュリーがその長官に就任した。
 1948年06月のベルリン封鎖で冷戦が激化すると、ソ連の脅威を封じ込めるため北大西洋条約機構(NATO)を結成した。東西対立激化の中、共産党員であったジョリオ=キュリーは西側の対ソ封じ込め政策に反対の立場をとり、共産党主導の平和運動に積極的に参加した。特にトルーマン大統領が水爆開発決定を発表すると、極めて親ソ的な発言を公然と行うようになり、1950年4月にジョリオ=キュリーは長官を解任された。晩年は笑止にもパグウォッシュ会議設立に尽力した。
 1954年には「一般研究局」というコード名の原爆製造部を設置し、続いて1959年に当時のド・ゴール大統領は、「フランスの安全保障が、アメリカの核の傘に依存せずに済む。」と理屈を付け、通常兵力削減の代わりにフランス独自の核戦力の開発を宣言。アメリカはこのフランスによる独自の核開発に反対し、1959年09月にはフランスの原子力開発に協力した企業の契約を破棄した。
 1959年03月、ド・ゴールはNATOの指揮権からのフランス地中海艦隊の撤収を宣言、1963年には英仏海峡と大西洋でも同様の措置をとり、1965年04月、ド・ゴールは、「フランスの国防や経済が、アメリカの兵器・経済・政策に依存する大西洋同盟に吸収されることを拒否する。独自の核戦力を維持することは金のかかることではない。NATOはフランスを終局的に補助的なものに止めるものであり、真にフランスを防衛するものではない。」と演説し、翌1966年03月、ド・ゴールは、「フランス領内に駐留する同盟国(アメリカ)の軍隊・基地その他に対し、フランスの主権回復のため一方的措置をとる。」と米軍の撤退を通告。事実上NATOの軍事機構からの脱退を果たした。

 そのため、フランスが初の原爆実験を行ったのは、1960年02月13日、サハラ砂漠のレガヌ実験場での「快挙」で、フランスは米ソ英につぐ世界4番目の核保有国となった。1960年02月~1966年02月、アルジェリアのサハラ砂漠では、大気圏で4回(レガヌ)、地下で13回(アハガール山地)の実験が行われた。1962年にアルジェリアが独立を勝ち取ったため(独立後もレガヌだけは直轄地とし5年間実験を強行)、ド・ゴールは、「ポマレっていう王を騙してて領土にした所でやれば良い。あそこなら地球の裏側だ。」と、フランス植民地であった南太平洋・ポリネシアのムルロア環礁とファンガタウァ環礁で核実験を続けた。

 ド・ゴールのフランス独自の核戦略が必要と主張、それを1965年のボーフル陸軍大将の「抑止と戦略」により確立した。その中で、ボーフルは「核大国が敵資源の95%を破壊出来るのに対し、小国が15%程度の破壊力しかない反撃力しか持たない場合は、相互に抑止力が機能する軍事的安定状況を作るべきだ。」と述べた。これがフランスの現在の核開発および戦略の原点である。現在のフランスの核戦略は、地上発射型の核ミサイルを廃止し、戦略ミサイル原潜と航空機による核爆弾および巡航核ミサイルという戦略を取っている。

ファンガタウファ環礁(Fangataufa (Fangatafoa) atoll)

 南太平洋にある仏領ポリネシアの島。トゥアモトゥ諸島の一部であり、南緯22°15′、西経138°45′に位置する。1949年にフランス海外領土に昇格した植民地で、1957年に大幅な自治権を獲得した。1966年から1996年にかけ、近くにあるムルロア環礁とともに、およそ200回の核実験が行われた。
 ファンガタウファ環礁は、フランスが1968年08月24日に初めて行った二段階熱核実験、コード名「カノープス(Canopus)」が行われた実験場で、2.6メガトン(広島型原爆リトルボーイの170倍の破壊力)の核爆発実験を行った。ファンガタウファ環礁ではいくつかの地下核実験と同様に3度の大気中核実験が行われた。 ダリの抽象画のように見えるが、実写である。


フランスが1968年08月24日にファンガタウファ環礁で初めて行った二段階熱核実験、コード名「カノープス(Canopus)」

 フランスは核実験の準備のため、1964年には、パペエテに秘密警察を作った。名前は「研究局」立ったが、住民は絶えず密告され、検閲は定期化され、核実験についての発言などできるはずもない状態だった。SMSR(軍放射線安全対策機関)は、「地理的に孤立しており遺伝的同グループ内の婚姻が多く早婚の習慣もあり被曝リスクは高いと思われる。例えば欧州人と同じ線量の被曝でも、ポリネシア人への影響はより強く出る可能性が高い。」と指摘し、マオヒ(ポリネシア人)の遺伝的特性は被害を増幅させた。仏領ポリネシアで最も美しいカテドラルと言われている建物を核シェルターとして使い、また、信じられない事実だが、当時のフランスはポリネシア周辺の気候に関して全くの無知だった。実験を成功させるための技術的な研究も、ほとんどが不完全であった。核汚染の制御などをミクロネシアでの実験経験豊富な米国に頼ろうとしたが、当然ながら技術や情報提供を拒否され、そこで陸軍省依頼のもと 、SDECE(フランス情報局)は、あらゆる方面にスパイを放った。爆弾の小型化、起爆装置、トリチウム製造、気候による汚染拡散のデータなど、手当たり次第に探ろうとしたが、スパイ達はFBIの返り討ちになった。何のデータも根拠もないままに手探りの状態で核実験は行われる事になってしまった。

 1960年代、仏領ポリネシアは、フランスからの援助で経済的恩恵を受けたが、度重なる核実験による海洋汚染や健康被害が広がったが、フランス政府は、核実験と健康被害が結び付く証拠はないとして補償を一切行っていない。フランスは、ポリネシアは自国の領海内であり、そこで核実験をしていることは他の核保有国の実験に比べれば良心的とまで主張している。

マンガレヴァ島の被曝

 1966年07月02日、コード名:アルデバラン(TNT換算30キロトン)のフランス最初の南太平洋での大気圏核実験を未明に行った。仏領ポリネシア、マンガレヴァ島のビーチは一見いつものように穏やかだった。西風にヤシの葉はそよそよとなびき、裸の子供達は走ったり転げながら遊び回っていた。フランス軍軍人たちは、そんな光景を眺めながら何も言わなかった。しかし、数時間前から放射性降下物(死の灰)が風で運ばれてきていて、土壌は既に放射性降下物で汚染されていた。大変な緊急事態なのに、軍人達は揃って沈黙を続けた。
 核実験から16時間後に、巡洋艦「ド・グラス」上のローレン中将は緊急警報(電報)を受信。「キノコ雲は予測よりも放射能が強く、高度も低い。」風は低層、向きは南東のマンガレヴァ島方向。23時間後には汚染の事実は決定的になった。「大臣に通報。放射能レベルは無視できない強さにあり土壌は汚染された。早急に汚染除去方法と食料についての指示を要請する。」ローレン中将は被害調査のため科学調査船「ラ・コキーユ」の派遣を極秘裏に命じたのみで情報を規制した。核実験の3日後に「ラ・コキーユ」がマンガレヴァ島に到着。船上には軍医ミロンがフランスの欺瞞、人種蔑視、不条理に溢れたレポートを書いている。

 実は、1963年に米英ソ三国により部分的核実験禁止条約が国連で可決され、大気圏爆発実験が禁止になっていたが、フランスは無視して強行していた。南太平洋各国で放射能の拡散調査が行われ、西サモアやクック諸島はもちろん、ニュージーランドやオーストラリアでも核実験由来の放射性物質が検出された。ニュージランドは国際司法裁判所に提訴し、「実験停止」を勝ち取ったが、フランス政府は1977年、核実験を地下実験に限定すると発表。米国はマーシャル諸島やビキニ環礁などで核実験を行なったが、環礁は脆弱で実験に向かないためネバダ州に実験場を移したが、フランスは脆弱な環礁で核実験を続けた。1983年に実験海域を調査した科学者は、数百年後には海底から放射能が漏れ出すと警告している。近年、フランスによる核実験がもたらした放射性物質による汚染がいまだ深刻であることが明らかとなった。

フランス諜報機関によるテロ

 今では悪名高い、グリーンピース(Greenpeace)は、そもそも、1969年、アメリカのアリューシャン列島のアムチトカ島で行おうとしている地下核実験に反対するために、カナダのバンクーバーに「波を立てるな委員会(Don't Make a Wave Committee)」という反核団体である。1972年、フランスが南太平洋のムルロア環礁で核実験に反対行動を行い、フランス兵から暴行を受け重傷を負ったりしている。

 1985年07月10日、グリーンピースの帆走キャンペーン船「虹の戦士(S.V.Rainbow Warrior)」号は、ムルロア環礁におけるフランスの核実験に抗議・反対する航海のため、ニュージーランドのオークランド港で出港準備をしていたが、この船が同日夜、爆破・撃沈された。この際、ボランティアとして乗船していたポルトガル人写真家のフェルナンド・ペレイラ(Fernando Pereira)が死亡。
 この爆破事件は、ニュージーランド警察当局の捜査によってフランス諜報機関(対外治安総局:DGSE)によるテロであることが突き止められ、ニュージーランドから逃げ遅れたフランス軍士官のテロ作戦指揮官2名が逮捕された。実行犯4名はヨットによって逃亡し、その後の消息は不明。他にも逃亡に成功したフランス軍人はいるものと考えられている。フランスの国家による犯罪であったため、旅券などはすべて偽造のもので、逮捕された指揮官2名は偽造のスイス国籍の旅券を所持。この事件は、派生的にニュージーランドとフランスの国際問題にも発展した。

 ミッテランも核開発を進め、一時停止をしたが、広島・長崎への原子爆弾投下50周年目の1995年、包括的核実験禁止条約 (CTBT) の締結を控え、核兵力の確認と誇示のため、ド・ゴール崇拝者のシラクによって、再び再開。ムルロア環礁で数度の核実験を強行したが、「駆け込み実験」と世界的な非難を浴びた。同時に地下核実験を行った支那と共同歩調をとり、関係強化に努めた。シラクは、「太平洋諸島で問題になっている健康障害が、同地でのフランスの核実験と関係があると立証されれば、フランスは責任をとる。」と言っているが、水俣病ですら、有機水銀との医学的因果関係が実証されていない。そこで、公害問題では、予防原則を取っている。このシラクの発言は、「責任を取らない。」と宣告しているのと同じなのである。

フランス人は自らを偉大でない、取るに足らない民族だと思われるのは耐えられないらしい。EU内でも重要なポストにはフランス人を推す、それが無理ならフランス語のできる人材を要求する。

軍司泰史 「シラクのフランス」

石油急騰 羊たちの沈黙

2008年07月02日 11時29分50秒 | インポート

羊たちの沈黙 (文庫)

 羊たちの沈黙(The Silence of the Lambs)
 「まだ羊の悲鳴が聞こえるかね。」というハンニバル・レクター(Hannibal Lecter)の問いに、クラリス・スターリング(Clarice Starling)はとうとう答えなかった。映画では、小羊を助けようと、牧場を脱走したが、原作では、羊の悲鳴で目を覚ました彼女は、盲らの食用馬と脱走し、孤児院に一緒に引き取られる。仲良しの馬、ハンナのは避けることができたが、12頭の羊は見捨てた。今でも小羊の数を即答できるクラリスだから、小羊の悲鳴が耳から離れない。

 毎月、ガソリン価格が上昇を続けている。卸し価格は10円/? 以下なのだが、便乗で10円/? 以上の値上げで、183円/? になっている。ハイオクを入れると、200円/? 近い。適当なグラフがなかったので、石油情報センターの資料からグラフを作ってみた。暫定税率廃止で、25.1円/? の値下げとなった4月以降の急激な値上がりは、狂乱としか言えない。石油ショックとかいう言葉も買いつけ騒ぎも、暴動やゼネスト、デモが起こらないのはどうしてなのだろうか。羊たちが沈黙を続けている間に、火炎瓶1本作るのも、割高になっている。

 ガソリン税53.8円/? (揮発油税48.6円/? +地方道路税5.2円/? )に石油税が約2.04円/? 、原油関税0.215円/? (2006年度以降廃止)に、消費税5%(7月2日現在8.72円/? )の2重課税が加わっている。 4月には廃止した、暫定税率25.1円/? (揮発油税24.3円/? +地方道路税0.8円/? )を再度廃止すると、2重加算の消費税5%を足して、現在の価格でいうと、26.4円/? 下がり、156円/? 、ガソリン税自体を廃止すれば、126円/? と甘受できる価格になる。
 マスゴミなどは決して触れないが、琉球は、沖縄の復帰に伴う特別措置に関する法律第80条3項に基づく政令という特待制度があり、本土よりも7円/? 減税されている。ガソリン税は、46.8円/? (揮発油税42.3円/? + 地方道路税4.5円/? )で、3回目の延長が決まって、何と復帰から40年目まで続くことになっている(1993年12月1日 - 2012年5月14日)。大田實海軍少将(死後中将)は、「(沖縄)県民に格別の配慮を。」と言い残し自決したが、もう63年も経った。未だに反日乞食の琉球に格別の格差を付けることは、他の地域への差別でしかない。離島の利尻島や壱岐、南鮮に乗っ取られつつある対馬などは210円/? というのだから、こちらの方に格別の配慮をすべきである。
 備蓄石油を放出したり、産油国と外交により低価格(といっても高いが)で緊急輸入したりする努力が一切なされていない。福田康夫を始め、無駄に多く税金にたかる与野党ともに議員どもに、私利と省益しか考えない官僚は無能面を並べ、ふんふんと見ているだけチンパンジーである。
 原油高の原因は、支那や印度の実需を見込んで、サブプライムの破綻で先物商品取引市場に流れ込んだ、年金や保険、定期預金などの資金の投機によるもので、市場経済の体をなしていない異常事態になってしまった。地球温暖化どころの騒ぎではなく、われわれの年金や保険、銀行に預けた預金が、勝手に原油の急騰に使われ、アラブの部族の土人と、それを媒介するユダヤに富が集中し、皮肉にも自縄自縛の自爆状態となった。なお一層の物流や農産品の不作による物価の高騰が次々と引き起こされ、スタグフレーションなのに給与は下がるという物価高地獄が直撃していく。
 日本の場合、ドバイのあるアラブ首長国連邦、ウサマビンラディンのサウジアラビア、核開発のイラン、アル・ジャズィーラのカタール、「中東の笛」の不正の国、クウェートから輸入している。欧米の利用する原油に比べ硫黄分が多く品質が悪い。また、意外と知られていないのは、日本のレギュラーガソリンはオクタン価が90~92と、欧米に比べ低いため、欧米車にはハイオクを入れなくてはならない。海賊の出没するシーレーンを防衛もできない自衛隊では、日本向けタンカーの保険料も割高となり、日本での原油価格を引き上げている。
 今年、アメリカは大統領選挙の年でもあり、低所得者層への配慮、ドイツは車通勤に補助金を出すとか、各国ともに異常な原油高の急騰に対応しているのだが、福田康夫は無為無策で、無能と来ている。無知に無恥も付け加えよう。ダッカ日航機事件と尖閣諸島問題で日本の国益と世界の安全保障を著しく損なった、無恥無能の親父の福田赳夫に習い、首相に空気も読めず居すわることが自己目的のようだ。洞爺湖で、寒い妄言を吐いて、各国の苦笑を買うことであろうが、国民の生命・財産は崖っぷちに放置されたままだ。
 野蛮な肉食狩猟獣の資本主義経済体制からの超克が必要であり、欧米ユダヤのグローバリズムを否定、支那の覇権を押さえ、特定アジアを懲罰するためには、核武装と強圧姿勢による鎖国(ブロック経済化)しか日本の生き残る道はない。


石油情報センターレギュラーガソリン一般小売価格の全国平均値(月次調査)の資料に消費税外税表示期の消費税を加算して計算。

おフランス(aux France) その3

2008年05月23日 18時27分20秒 | インポート
← セーヌ川(La Seine)
 1961年10月17日にアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲撃し、パリ市内の至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われた。
 虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。


フランスの野蛮性の検証
~西欧の朝鮮・東北アジアのフランス~


 1961年10月17日、パリのど真ん中でアルジェリア戦争(1954~62年)に反対する3万人のアルジェリア人の非武装で平和的なデモ隊を警官隊が襲い、70~200人を虐殺し数百人が負傷、死体をゴミ箱やセーヌ川に投げ入れるという虐殺(Paris massacre of 1961)が発生した。
 10月06日に警官がアルジェリア民族解放戦線(FLN)に襲撃されると言う事件が起こり、パリ市警視総監のモーリス・パポンは「一発やられたら10倍にして返す。」と警官の葬儀の際に発言し、パリのアルジェリア人に対し、夜間外出禁止令を命じた。騒然とした緊張感が高まった17日の夕方、「アルジェリア人のアルジェリア」をスローガンに夜間外出禁止令への抗議デモを行ったところ、彼らに対する鎮圧は地獄絵となった。
 パリ市内の至るところでアルジェリア人に対する虐殺が行われた。虐殺を免れたアルジェリア人も逃げ場を失い、次々とセーヌ川に身を投じた。また死体もセーヌ川に捨てられ、セーヌ川は血の色で染まった。翌日パリ警察からの死者の発表はわずか2人。日を追うごとにセーヌ川の岸におびただしい数の死体が打ち上げられていったが、警察はこの死者の数を訂正しなかった。さらに酷いことには、この事件が起こったことは、1998年まで秘密にされてきた。
 アルジェリアが地中海を挟んだフランスに支配されたのは1834年。それ以来、フランスは130年近くに渡ってこの地を支配し、100万人以上のフランス人が入植し、アルジェリアを海外直轄県(オラン県・アルジェ県・コンスタンチン県)と称していた。日本の大東亜戦争によって、世界秩序が変わり、白人の圧政に対し、独立の機運が高まり、1954年にアルジェリア独立戦争が始まる。1962年まで続いたこの戦争はアルジェリアに約100万人、フランスに約10万人の犠牲者を出した。
 フランスは、アルジェリアを海外県として、「フランスの秩序を乱す内乱」と捉えていた。フランスがこの戦争を「内乱ではなく独立戦争である。」と認めたのは、戦争が終結して40年近く経った1999年のことである。
 多くのアルジェリア人がフランス人として戦争(普仏戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争など)に駈り出された。第一次大戦の激戦地ベルダンでは1万5000人のフランス軍兵士が命を落としたが、そのうちの600人はアルジェリア人であり、イスラム教徒である彼らの墓には十字架は存在しない。アルジェリア戦争でも多くのアルジェリア人がフランスのために祖国と戦い、アルジェリアで命を落とした。
 アルジェリア独立戦争にフランスは敗れ、現在でも、アルジェリア出身と聞いただけで、フランス人は、敵意をその移民に抱くようだ。インドシナ戦争やアルジェリア戦争でのフランスの残虐行為は、言うまでもない。

 2005年10月27日にフランス・パリの東にある郊外から全国に飛び火したパリ郊外暴動事件が発生した。北アフリカからの移民は、警官隊に向かって銃を撃ち、全く罪のない非移民を1人殺し、店舗を壊し、無数の車を燃やした。もっとも、フランスでは大晦日に毎年400台程度の車が燃やされるそうだから、それほど大したことではないらしい。
 ユダヤ系のサルコジ内相(当時)は、北アフリカからの移民を「社会のくず(Racaille)」、「ゴロツキ(Voyou)」などと品性のかけらもない暴言で罵倒し、フランス人の共感を呼んだ。この暴言により、大統領に選出されたとも言える。また、北アフリカからの移民の暴動の原因に、ラップをあげる新聞などが複数あり、「なんでもアメリカのせい」(アンチ・アメリカ主義 anti-americaine)という、フランス人の属性を曝け出し、とりわけ周辺諸国のメディアをはじめ、傍観者の失笑を買った。

 欧州諸国中イスラム教徒の人口が一番多く、「自由・平等・博愛」の共和国原理をもつはずのフランスだが、フランスにおける移民の分離・失業・社会的疎外状況は、西欧諸国の中で最悪な状況である。ところが、暴動が起こるまで、社会党のシラク大統領(当時)は、「フランスに移民問題は存在しない。」と、アメリカの移民問題を批判していた。ドイツやイギリスなどには移民の面倒をみたり、移民に非暴力を教えるクラブや組織のネットワークが存在するが、フランスにはなく、他の国では、2世以降の移民がスラムや分離された下層階層から抜け出て就職するのが可能だが、フランスでは極めて困難である。また、フランスだけには、抗議を暴力に訴える長い伝統がある。その意味では、移民はフランスの農民や組合員がやってきたことに倣ったに過ぎない。

 この伝統に則り、「南京虐殺」、「従軍慰安婦」、「靖国神社」など事実歪曲の反日批判を繰り返している。

 平気で嘘をつく、自分が優位に立てる行為には、落ち度のない相手でも怒鳴る、故意に物事を複雑にする、他人が熱意をもって説得しても、そっけないほどつっけんどんなくせに、自分が関心のあることだと厚かましいほど熱心。何かにつけて、Viva la France!(フランス万歳!) Viva la République française!(フランス共和国万歳!)。 これがフランス人である。 

 まとめると、無愛想で嘘つきで自分勝手で自己中心主義、世界中から嫌われている。どこかで目にしたような、・・・。と思ったら、朝鮮人だった。共和国万歳!(Viva la République!)。
 ユーラシアの西と東の端の半島と考えれば瓜二つだ。そういえば、ヴィエトナムもフランスなんかの植民地になったため宗主国に倣って、特に、ヴィエトナム戦争以降、品性劣悪な国に堕ちてしまった。以前は、性格の良い民族だったらしい。ラオ(これもフランス語の綴りが複数形のLaosでラオと読むが、英語では語尾の「s」を読むのでラオスになってしまった。)でも、久しぶりに最近訪れてみたら、ボッたくっられて、無性に腹が立った。また、行ったことはないし、内戦や伝染病が蔓延していて、大金を積まれても行きたくもない、西アフリカなんかも旅行記を読むと同じようだ。

フランス人の反日語録

シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール (Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle)大統領
池田勇人首相を「トランジスタ商人」呼ばわり。

ニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)大統領
「率直に言うと、日本よりも支那の方が好きだ。香港は魅惑的な都市だが、東京は息が詰まる。京都御所も有名な庭園も陰気だった。」、「ポマードを付けた太った男同士が戦うことが魅力的なのか。相撲は知的スポーツではない。」

エディット・クレッソン(Édith Cresson)首相(社会党)
「日本人はウサギ小屋に住み、2時間もかけて通勤するワーカホリック。」
人種差別発言に対し、抗議した日本政府に対し、「市場において我々に何の利益ももたらさない国からの抗議は受けられない。」
在仏日本国大使に対し、「日本人は蟻。何度殺しても出てくる蟻。」
「日本は規則も守らず世界征服を企む。」、「欧米を出し抜くことに懸命な黄色いチビ。」

ローラン・デュマ(Roland Dumas)外相(社会党)
1994年にカンボジアのポル・ポト派とフン・セン派の和平交渉が成立した際、「カンボジアは日本が侵略して以来混沌の極致にあったが、いまやっと平和の火が灯された。」

 フランスは、全世界に武器を輸出し、戦争を拡大させて血をすすっている死の商人の国なので、お得意様の支那には頭が上らないのだろう。三色旗にハーケンクロイツを書いてもらってはどうだろうか。ついでに、猿居士は変態、呉損は売春婦と書いてもらうのはどうだろうか。ナボレオンやジャンヌダルクと同等の扱いなら鼻が高いだろう。カールフールは毒餃子というのも忘れないように。
 他の言も酷いが、呉損という社会党の馬鹿女は気違いそのものだ。ロシアのプーチンなら刺客を送っている。大東亜戦争で、フランスの植民地支配を終焉に導いた日本に殺意を抱いているのである。デュマは、フランスの過酷な植民地支配からヴィエトナム、カンボジア、ラオを解放した日本を逆にフランスに置き換え、歴史の捏造、フランスがどの面してと、まさに「西欧の朝鮮」。当時の映像で、フランスの女がウィエトナムの子供にお菓子を地べたに投げ与えているのが残っている。人間扱いをしていないのがよくわかり、腸が煮えたぎった。
 そもそも、ディエンビエンフーの戦いとか、弱いくせに無益な戦闘を行い、ボロ負けを喫し、アメリカの介入を招いた。カンボジアでも、ポルポトの共産党をクメール・ルージュ(赤いクメール、フランス語)というように、フランスの左翼が援助し、フランスのお家芸の虐殺を叩き込み、120万人と呼ばれる大虐殺を行わせた。

 この人類に対する大罪を犯したフランスの責任回避と日本へのなすり付けは絶対に許してはいけない。

 補足すれば、フランスはこの時、シラク大統領だったか、カンボジアにコックを連れて入り、「本格的なフランス料理に飢えていただろう。」と、カンボジア政府要人をもてなしたが、自己中心の中華思想の馬鹿丸出しが周囲の失笑を買った。

つい最近できたばかりのフランス(その1)
 フランスは、欧州諸国中イスラム教徒の人口が一番多いというのに、現在の大統領が2005年11月に、暴動を起こしたイスラム教徒たる市民を「クズ」と呼ぶような国なのだ。
 このフランスの凋落ぶりは目を覆うばかりだ。
 英語圏で知られているフランスの作家は、今や余りばっとしない小説家のウェルベック(Michel Houellebecq、1958(1956?)~)くらいなものだし、フランスの哲学者に至っては皆無で、デリダ(Jacques Derrida、1930~2004)が嘲笑的に思い出されるくらいのものだ。
 フランス料理の人気は下がるばかりだし、パリが流行の中心をニューヨークとロンドンに譲ってから久しい。


おフランス(aux France) その2

2008年05月22日 11時51分06秒 | インポート
調和広場(Place de la Concorde)からルーブル美術館を望む
ジャコバン派政権下、国王ルイ16世、王妃マリー・アントワネット、質量保存の法則の発見者ラボアジェ、ギロチンの発明者ギヨチーヌ、マラー、ダントン、ロベスピエールらのジャコバン派も、コンコルド広場のギロチンで処刑され、10ケ月間に2800人とも言われる。

 フランスと言えば、フランスベッドフランス書院フランス被れだろう。この3つのうち、嫌いなのは、フランス被れだけで、残りの2つは嫌いではない。「おフランス(aux France) その1」を書いているので、読者に誤解があるかも知れないが、私はフランスが嫌いではない。嫌いなら4回も10時間も飛行機に乗るという苦行をしてまで行ってはいないし、フランス語を学習し続けてはいない。フランスで、ボラれたり、人種差別を受けたり、強盗に2回も遭いそうになったのだが、あの雰囲気が嫌いではない。泥棒に遭ったのは、唯一マレーシアだけで、それも2回だが、マレーシアが嫌いにはならないのと同じである。
 星広場のアーチ(Arc de triomphe de l'Etoile)から、ルーブル美術館(Musée du Louvre)に向け、親友とカフェやエール・フランスに立ち寄りながら歩いていた。これが、極楽通りにて(aux Champs-Elysées)である。フランス被れの悪口を話ながら歩いていたら、 見ず知らずのフランス被れの日本人の女が非難染みた口調で話しかけてきた。そこで、「ここはフランスだよ(C'est la France.)。」と返したら、黙ってしまった。

 現大統領のニコラ・ポール・ステファヌ・サルコジ・ド・ナジ=ボクサ(Nicolas Paul Stéphane Sarközy de Nagy-Bocsa)は、父がハンガリー人、母がギリシアのユダヤ人の移民2世、去年の大統領選の社会党の対立候補のマリー・セゴレーヌ・ロワイヤル(Marie Ségolène Royal)は植民地のセネガルのダカール出身、ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte)は、イタリアのロンバルディアを出自の帰属がころころ変わったコルシガ人の移民で、コルシガ名はナブリオーネ・ブオナパルテ(コルシガ語: Nabulione Buonaparte)である。マリヤ・スクウォドフスカ=キュリー(Maria Skłodowska-Curie)こと、フランス名:マリー・キュリー(Marie Curie)はポーランド人の移民、イヴ・モンタン(Yves Montand)はイタリア人の移民、ジャン・レノ(Jean Reno、本名:Don Juan Moreno y Jederique Jimenez)は両親がスペインのアンダルシア人で植民地のモロッコのカサブランカ生れの移民2世、頭突きのジネディーヌ・ジダン(Zinedine Yazid Zidane)はアルジェリアのベルベル人の移民2世、日産を食い物にしたカルロス・ゴーンこと、カルロス・ゴーン・ビシャラ(Carlos Ghosn Bichara)は父はレバノン人、母はフランス人の間の子でブラジルのポルト・ベーリョで生まれで、レバノンのベイルートで育っている。ここに挙げた有名人は、生粋のパリッ子どころか、フランス本国者は1人もいない。

一体、フランスとは何なのだろうか? 歴史を振り返る。

 古代、地中海沿岸のギリシャ人都市を除くとケルト人が住む土地で、ローマ人はこの地をガリアと呼んでいた。カエサルは紀元前1世紀に遠征し、共和政ローマの属州とした。5世紀になると、民族大移動が起こり、ゲルマン系西ゴート族が移動。西ローマ帝国が滅び、ゲルマン系フランク族サリー支族がつくったフランク王国が勢力を伸ばした(カロリング朝カール大帝のとき最大版図)。カール大帝(フランス語読み:シャルルマーニュ大帝)の子のルートヴィヒ1世(フランス語読み:ルイ1世)の死後、王国は3つに分割され、そのうち、カール2世(フランス語読み:シャルル2世)が継承した、西フランク王国がフランスである。

 西フランク王国は弱体化し、各地の領主が勢力をもっていた。9世紀には、ヴァイキングとして海賊活動を行うゲルマン系のノルマン族を率いてフランス北岸に侵入したロロに、セーヌ川を遡りパリは攻略された。西フランク王シャルル3世は、慰撫策を取り、ロロにノルマンディーを与え、ノルマンディー公に叙した。10世紀、カロリング家は断絶。西フランク王ロベール1世(ロベール朝)の孫にあたるパリ伯ユーグ・カペーが王として選ばれ、カペー朝が成立した。王権を拡大させた。後のヴァロワ朝やブルボン朝、オルレアン朝はカペー家の分族である。

 アンジュー伯アンリが、同時に、イングランドの初代国王ヘンリー2世となり、イングランド、ノルマンディ、アキテーヌ、アンジュー、ブルターニュを領有しアンジュー帝国(プランタジネット朝)が成立した。後のランカスター朝、ヨーク朝はプランタジネット朝の最末期に別れた分家である。ジャンヌ・ダルクなどが活躍した百年戦争に負けたイングランドでは、フランス側の領土を失い、イギリスでは薔薇戦争が続いて諸侯は疲弊し没落し、王権は著しく強化され。テューダー朝による絶対君主制が成立した。フランスでは血で血を洗うサン・バルテルミの虐殺(Massacre de la Saint-Barthélemy、聖バーソロミューの虐殺)や宗教戦争が起こったが、統一されたことで王権が伸張し、ブルボン朝の絶対君主制が確立した。

 1789年の革命でアンシャン・レジーム(Ancien Regime)は否定されたが、ナポレオンは以前にも増して深く分裂した国家を後世に残した。ブルターニュ(ブルトン語:Breizh)とヴァンデー(Vendée) は歴史家が虐殺と呼ぶほど悲惨な目にあった。例えば、ニーム(Nimes)を中心とするガール(Gard)県は、フランスの北アイルランドとも言うべき場所だが、プロテスタントがカトリック教徒によって虐殺されている。フランスのかなりの地域は山賊によって支配されていたし、大都会のいくつかは事実上独立国家のようなものだった。

 1871年、皇帝であるナポレオン3世が捕虜となり、帝国は瓦解し、03月28日、パリで政府に代わるパリ・コミューンの設立が宣言された。だが、フランス軍はプロイセンの支援を得て05月28日にパリを鎮圧し、万を超える労働者や革命家の粛清が行われた。普仏戦争における屈辱的な敗北とアルザス・ロレーヌ(Alsace-Lorrain)の割譲について責任追及が行われ、第2帝政の廷臣が引き出された。「彼らこそフランスの男たちの、ひいてはフランスそのものの士気を低下させた。」と断罪された。普仏戦争から何十年も経ってもフランスは普仏戦争を引きずっていた。

 1914年に戦争が再び避けられないと考えられるようになると、フランスの人々はまた大破局が繰り返されるのではないかという恐怖にとらわれた。マルヌの戦いは09月の初めの数日間続き、25万人のフランス人が命を落としたが、フランス人は150万人の犠牲者を出すという代償を支払って、第1次世界大戦の間ずっと共和国を存続させた。フランス革命によって生まれた民族主義は、フランスの内外に大小の戦争を何度となく引き起こし、1世紀以上かけてフランスを統一した。

 民族主義は、第1次世界大戦後にオーストリア・ハンガリーという帝国を解体するために米国によって用いられ、結果として欧州の情勢を不安定化した。次いで欧州で共産主義というイデオロギーが生まれた。米国が期待したように民族主義が共産主義への対抗力として機能せず、共産主義は猛威をふるい、民族主義がファシズムへと変貌し、世界中に塗炭の苦しみをもたらした。全てはフランスが根源である。

 18世紀以降、フランスはアジアやアフリカ、南北アメリカに触手を伸ばし、多くの植民地を所有したが、20世紀に入り、日本の大東亜戦争などにより、多くが独立を果たしたが、今なおカリブ海や南太平洋地域に「海外県」と自称する植民地を保有し、原住民を弾圧している。

フランス民族というのは存在するのだろうか?

 歴史的な経緯から、フランスは、ケルト人・ラテン人・ゲルマン系のフランク人など混成民族を中核とする欧州最大の多民族国家である。ブルターニュではケルト系のブルトン人、スペインとの国境付近にはバスク人、アルザス・ロレーヌは元々ドイツ文化圏に属し、コルシガ島もイタリア人に近いコルシガ人が住む。東欧などから多くの移民・政治的難民を受け入れ、近年では、イスラム教徒のアフリカ・中近東からの移民が多い。

 言語は、公用語であるフランス語のほかに、オック語などの幾つものロマンス語系の地域言語が存在するほか、ブルターニュではケルト系のブルトン語、アルザスではドイツ語の方言であるアレマン語の一つのアルザス語、コルシガではコルシガ語が併用されている。

 20世紀になるまで、フランス語はフランスにおいて少数派の言語であり、スタンダール(Stendhal)は1830年代に「フランスの文明化された部分はナント(Nantes)とディジョン(Dijon)を結ぶ線の北側だけであり、その他のすべては野蛮な地域である。」と書いている。「連中は魔女の存在を信じており、フランス語を読むことも喋ることもできない。」という有り様である。その後、人気の観光ガイドブックはどれも、都会以外を訪問しようとする観光客に、「地元住民に話しかけるな。」という警告文を記していた。ミシュランが1912年に、フランス全土に標識を立てるよう政府に求める請願を行ったのは、自動車を運転する人々が得体の知れない地域の種族と接触するのを避けるためであった。1830年の革命で復活した立憲君主制の時代、1839年から1848年の間、パリの街中での戦闘はなかったのだが、この程度でも、「羨むべきほど安定していた時代」と言われたほどであった。