宇宙を考えるとき、人は都合に合わせて大きな単位を作ってきたので「天文学的数字」というのは意外に大きくなく、AUとか光年とかパーセクとかを用いることでだいたい億とか京とか垓とかで収まるみたい。SI接頭辞でいえば大抵はテラまでで、これを超えるペタやエクサは天文学の要求ではなく放射線物理学の分野で数字の収拾がつかなくなってきたために制定されたとかなんとか。今はさらに上のゼタとヨタが定められているけど、それも天文学上の必要性から作られたものではないはずだ。
宇宙は広大で、そうした単位をもってしても終わりが見えないので無限と思われているが、無限というのはただの相対的な概念で、ただ数えることを放棄しただけではないのか。
そう思わされるような出来事があった。家の花壇は決して大きくない。間違いなく有限の大きさなのだけど、ぼうぼうの草を整理しようとするとこれが無尽蔵に思える。誰も手伝ってくれないのも影響している。人手が増えようとも処理すべき総量は不変だから、このことからもこれがあくまでも相対的な感覚に過ぎないことがわかる。ただ無限だと感じているだけで、有限であることは明らかである。明らかなものですら無限を感じるのだから、宇宙となればもっと絶望的なのだろう。
ちょっと大きな話になってしまいましたね。