グー版・迷子の古事記

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わかよたれそつねならむ

2014年01月09日 | いろは歌
慣例の7文字書きに織り込まれた言葉、「咎無くて死す」「色葉」そして「紅葉」。
「いろは歌」は「紅葉」と言う女性の事を歌った歌なのかもしれません
では誰がこの歌を歌ったのでしょう?
その謎を解くヒントが…

わかよたれそ

…に隠されているような気がします。
今からその男性と「紅葉」の存在を探っていった時に、あなたは歌の主人公「紅葉」と「咎(とが)」の間にもう一つの意味を見つけるかもしれません

「わかよたれそ つねならむ」
「我が世誰ぞ 常ならむ」

「この世で誰が不変でいられよう。」

これが一般的な解釈でしょうか。
私は古文の文法的な事はまるで無知ですが、偉い人の考えでは「我が世誰ぞ」の「ぞ」は「常ならむ」に繋がらないため文法的に間違いである、と言われているそうです。

でも良く考えてみてください。
詩や歌、散文、文章なら何でもですが、余韻を残す為に敢えて最後まで書かない事もあるのでは無いでしょうか?
またこの場合「ぞ」の後にどのような文章が続けば文法的に正しいのかは私には分かりませんが、専門家と呼ばれる人たちは果たして千年も前の言葉遣いを全て理解しきっているのでしょうか?
「いろは歌」の素晴らしさは専門家でも認める所なのでしょう。
その作者がまるで正しくない言葉を使ったのでしょうか?
古文に詳しくも無い私には「我が世誰ぞ 常ならむ」でも問題ないようにも見えます。

もし文法的に間違いなのだとしたら、こうしてみたらどうでしょうか?
「我が世誰ぞ」の後は余韻の為に言葉が省略されたと…
本当に古文の文法など全く無知な私がもしこの後に言葉を続けるとしたら…

我が世の誰が(美しい姫紅葉が散った事を知っているのであろうか)無常である

このような言葉を補うと思います

では初めに戻って…
「わかよたれそ」にこの歌の作者が誰かと言う謎を解くヒントがあると言いました。
「我が世誰ぞ」を通常は「この世の誰が」と解釈しているようです。
「我が世」を「この世」にしてしまっていいのでしょうか?
「我が世」と「この世」を使い分けた有名な歌があります。

この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば
(藤原道長 寛仁2年・1018年)

一片も欠けてない満月のように、この世は全て私の物だ。
と言うような意味でしょうか。

「この世」と「我が世」は使い分けられています。
藤原道長のように権勢を振るった人物、或いは天皇ならば、歌に「我が世」と織り込んだかもしれません。
そう考えると自然歌の作者は、天皇或いは権勢を振るった人物と言う事が考えられます

そこでは私は「紅葉」「天皇」「歌」の三つの言葉で検索してみました。
「いろは歌」の作者が他にも「紅葉」を歌った歌があるのでは無いか?
と思ったのです。

すると「紅葉」と言う名前の女性とそれに関わる天皇の存在が見えてきました

二人は鬼女「紅葉」と冷泉天皇。
そして紅葉は信濃(今の長野県)と関係が深い事が分かりました。
信濃(しなの)…
古くは「科野」とも書きます。
「科」の字は「とが」とも読みます。
「科野」の地は陸の孤島で、その昔には流刑地として朝廷に刃向かった人達が罪人として送られた所です。
古事記でも有名なタケミナカタもアマツカミに刃向かい封印された所でもあります。
信濃とは「科(とが)の地」である「しなの」なのです

(迷子の古事記 2013.12.15)