グー版・迷子の古事記

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タケミカヅチ③

2013年09月15日 | 古事記
国譲りで大和の大功労者となったタケミカヅチに子孫がいない、タケミカヅチを祖とする氏族がいない…
なんて非常事態なんだ
中臣・藤原氏は祖神として祭っているけども、中臣・藤原氏の祖ではない。
前回おろおろしかけた所で、タケミカヅチの二つの系図を見て、「もしかしてそうなのか?」と二つ目の系図に目がとまりました。

タケミカヅチの二つの系図

①(ホノカグツチ)→イツノオハバリ(イザナギの十拳剣)→タケミカヅチ
(国譲りの系図)
②オオモノヌシ→クシミガタ→イイガタスミ→タケミカヅチ→オオタタネコ
(崇神天皇紀の系図)

系図①のタケミカヅチは国譲りの功労者であるけれども子孫がいない。
しかし、全く別神かもしれない系図②のタケミカヅチには子孫がいる。
やはり、この二つの系図は一つのものなのかもしれない…
そうなると、大和の大功労者であるタケミカヅチの血脈はオオタタネコに受け継がれているのか…

  《オオタタネコ》

第10代崇神天皇の御世疫病が流行して人々が次々と死んでいました。
天皇は嘆き悲しみ神殿で祈願し、そのままそこで眠っていると夢にオオモノヌシが現れました。
「今流行っている病は自分のしわざである。オオタタネコに命じて自分を祭らせるなら、祟りは収まるだろう」

このオオタタネコこそが、系図②のタケミカヅチの子です。
何かおぼろげながら真実が見えてきそうな気がします

・タケミカヅチは神話の時代国譲りの功労者
・その子オオタタネコは崇神天皇時代の人

あまりにも時代が違いすぎます。
そしてもう一つ非常に重要な事柄があります。
系図②は古事記に書かれている系図なのですが、実は系図②はもう一つあるのです。
それが日本書紀の系図です。

③オオモノヌシ→オオタタネコ
(日本書紀・崇神天皇紀の系図)

系図②と③を比べてみてください。③ではタケミカヅチを含む3代の系図が削除されているのです。

古事記と日本書紀の編纂は、古事記のほうが少し早いのですが、ほぼ同時期に編纂されています。記紀どちらも、ほぼ同じ事物を編纂の素材として使用したのは確実です。
日本書紀は正式な歴史書として当初から公となりました。
しかし古事記は奈良時代の正史「続日本紀」にひと言も触れられず、平安時代の間は宮中の奥深くに隠され見てはならないものと言われていたとか…

オオタタネコの父は、系図②ではタケミカヅチ、系図③ではオオモノヌシ。
タケミカヅチ、オオモノヌシ共に神様で、崇神天皇の時代に神話の時代の神様が父として登場する事は、当時の感覚では可笑しくは無いのかもしれません。

では何故、系図③でタケミカヅチは消されたのでしょうか?

・タケミカヅチの存在が崇神天皇の時代に実際にいた人物を想起させる事により、神話と歴史の整合性が失われ記紀の正当性が失われるから?
・タケミカヅチとオオモノヌシを関連付けられたら困るから?
・タケミカヅチとオオタタネコを関連付けられたら困るから?

タケミカヅチが系図から消された理由があるとすれば上記3点でしょうか。

崇神天皇の時代に国譲り神話を彷彿とさせる大和と出雲の権力闘争があったらしい形跡が古事記から読み取れます。
当ブログ ネコ(根子) 参照下さい

国譲り神話を崇神天皇即位当時の出来事だと考えれば、系図①②を一つの系図と考える事も容易な気がします。
国譲りの功労者タケミカヅチの子・オオタタネコに三輪山でオオモノヌシを祭らせると言う事は、
オオタタネコは三輪山周辺の管理者となりその土地で取れる収穫米の恩恵を受けると言う事です。
功労者の子息に対する充分な褒章と受け止める事も出来そうです。

タケミカヅチが系図から削除された理由があるとすれば、祟りなしたオオモノヌシの系図にタケミカヅチが載る事が都合悪かったからだろうか?
タケミカヅチを祖神とする中臣・藤原氏は、記紀編纂当時最有力氏族であったため、天皇に祟りなす神と関係付けされたくなく、オオモノヌシの系図からタケミカヅチを排除したと考える事も出来るかもしれません

タケミカヅチとオオタタネコの関連付けについては、もう少し面白そうなものが見つかりそうな…そうでも無さそうな…

今回はこれでおしまい…
国譲りは崇神天皇の時代だった…
信じるも信じないもあなた次第です…