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英語の教科書にも原文が載っている有名な作品。
以前の訳者さんが物故されて、最近、村上春樹の訳で新しく出版されたと聞き、購入。
以前の訳よりも、おおきな木が女性の話し方になった分、
より母親の愛情という印象が強くなったと思う。
~話のあらすじ~
子どものときには木登りしたり、落ち葉で遊んだりしていた少年が、
成長して姿を見せなくなって、久しぶりに顔を出したと思えば、
「お金が必要なんだ」と言う。
会えてうれしくて木は、りんごを一つ残らずあげて、これを売ってお金にしなさいと。
そしてしばらくまた少年は来なくなり、久しぶりに来たら、
「家が欲しい。」木は枝を持って行くように言い、「少年」は全部持って行く。
またしばらく来なくなり、久しぶりに来たら、
木は震えるぐらいにうれしくて喜ぶ。
「少年」の要求は「遠くに行きたい。舟が欲しい。」
木は、幹を切るようにいう。
そのときばかりは、HAPPYとは言い切れない気持ちになる。
ずいぶん時間が経って、年取った「少年」が来る。
木は、もう葉も木登りでも遊んであげられない、りんごも食べさせてあげられない、
何もあげられないと謝るが、「少年」はもうそんな年じゃないと言い、
切り株に腰掛けて休む。
木は幸せだった。
~
木は、ついつい自分にできることをしてあげてしまう母親の愛情の象徴だと思う。
ときどき顔を見る事ができるとうれしくて。
これは世界的には「与えることの喜びと深い愛情」を伝えてくれるということらしいのだが、
どうも「少年」に対してはモヤモヤしたものが残る。
正直、この話、中学生ぐらいに読んだときには「少年」が厚かましすぎて、
そして「木」が甘やかしすぎて、ちょっと後味悪い話だと思っていた。
話をしていて気がついた。
一度でも「ありがとう」という言葉や、木に水をあげるとかそういう動作が
挿絵にでも描かれていたら、ここまでモヤモヤしなかったと思う。
そうすると、木の側の「与える喜び」が際立たせられないのかもしれないが、
とにかく、もらいっぱなしでなんとも思っていないような「少年」がちょっとダメ男っぽくて。
今だと、この「木」のような愛情には、つい甘えがちで、
改めてお礼を言うことや自分にもできることを探すことをしないというところが
未熟な「少年」にはありがちなんだということもこめられているような気がする。
あと、この作品の1フレーズが、年代や精神年齢で解釈が変わるというのもおもしろい。
幹を切るように言い、切り株だけになった木が、
ここだけは「HAPPY」と言わず、幸せとは言い切れない気持ちになる場面。
その理由について。
①とうとう自分の幹までなくなってしまったから。
②次に少年にしてあげられることがなくなってしまったから。
③舟で遠くに少年が行くということで、当分会えそうにないから。
④遠くへ行ってしまいたいぐらい悲しいことが少年に起こったということがつらいから。
深いね。そのときのその人の状況や視野が反映される部分だと思う。
ちなみに、この作品を、日本・イギリス・韓国・スウェーデンの子ども達の反応を比較すると、日本以外の3カ国の子ども達には「木は幸せだった」という部分をそのまま言葉どおりに受け止めて、100%のHAPPYだと解釈するんだって。
日本の子ども達だけが、何度も出てくる「木は幸せだった」という部分に
微妙に差をつけて、さっきよりは小さいHAPPYだとか、「本当にそうなのかな」と
考えて、その言葉が本当に心からの言葉からではないように解釈することもあるんだって。
文化の違いだろうけども、同じ文章を読んで、印象が全く違うなんて、
面白いけれども、そりゃ世界の問題を解決するのは大変だわな~。