goo blog サービス終了のお知らせ 

千島土地 アーカイブ・ブログ

1912年に設立された千島土地㈱に眠る、大阪の土地開発や船場商人にまつわる多彩な資料を整理、随時公開します。

甲東園と芝川家9 戦時下の甲東園

2023-06-23 09:35:06 | 芝川家の土地開発
芝川又右衛門が手をかけて整備し、文化を育んできた甲東園も、戦争の影響を逃れることはできませんでした。

敵性宗教であるキリスト教の学校であった関西学院へは軍の風当たりも強く、学院の敷地・建物の一部を海軍航空隊に提供するなど協力を余儀なくされます。学院正門前の松林(一部は千島土地所有地)も切り払われ、グライダー訓練場となりました。

海軍航空隊に関連する資料は当社にも何点か残されており、今回はそれらをご紹介していきたいと思います。

①昭和18年、仁川町3丁目周辺の所有地を川西航空機㈱が運営する海軍航空兵器生産工場(宝塚工場)の福利施設用地として売却

売渡土地明細(千島土地所蔵資料K03_339)
塗りつぶされた部分が売却土地です。付属する覚書の写しによると、昭和18年2月に芝川又四郎と千島土地が所有する計約9,000坪の土地が、116,144円70銭(うち8,250円は立木及び土地造成保証金)で買収代行者の西中弘氏に売却されました。

②昭和20年、芝川又四郎所有の自動車倉庫が海軍航空隊の糧食格納庫に

建物使用に関する件照会(千島土地所蔵資料G01059_029)
西宮海軍航空隊司令から兵庫県金属回収課長に宛てた照会状。回収された金属類の保管庫として使用されていた芝川又四郎が所有する神呪字東野原(東河原の間違い?)の自動車倉庫について、西宮海軍航空隊軍需品(糧食)分散格納庫として使用するため、回収物件搬出のこととあります。「本隊作業上急速実施を要する」ため、4月20日迄に搬出を実施して欲しいとありますが、照会状の日付は4月15日。5日しかありません…。

③昭和19年、帝塚山学院の郊外学舎「仁川コロニー」を海軍予科練習生の集会場として無償提供することを承諾

承諾書控(千島土地所蔵資料G01058_093)
㈶私立帝塚山学院理事長 山本藤助氏が仁川コロニーの校舎、敷地を無償提供することを物件所有者である千島土地㈱、日本住宅㈱、芝川又四郎が承諾したもの

先の記事でご紹介した通り、芝川家の大きな協力の下で開設された「仁川コロニー」も戦争の影響で継続が困難になり、昭和18年3月には備品が学院へ移され、事実上放棄されることになりました。

その後、昭和19年5月に海軍がこれを接収。物件を所有する千島土地㈱、日本住宅㈱、芝川又四郎の承諾書を添付し、建物の賃借協定が交わされました。

ところで、昭和6年の覚書では、昭和7年7月末日までに帝塚山学院が芝川又四郎より校舎を買い取ることが約定されていました。昭和7年6月末に付で校舎購入代金1,400円の内金として1,000円が支払われた領収書控が残されていますが、その後、どのような形で総額いくらが支払われたのかは不明です。しかし、承諾書に土地を所有する千島土地㈱、日本住宅㈱に加え、芝川又四郎の名前もあることから、昭和19年の時点では、まだ芝川又四郎が建物を所有していたのかも知れません(*)。


*)昭和22年10月には帝塚山学院と芝川又四郎の間で不動産売買契約(千島土地所蔵資料G00999_471)が交わされ、芝川又四郎が校舎を18万円で買い取っています。しかし不思議なのは、その翌月に帝塚山学院が校舎代金残額として70円を芝川又四郎に支払っているのです(千島土地所蔵資料G01069_498)。


■参考資料
創立100周年記念誌編纂委員会 編『帝塚山学院100年史』帝塚山学院/2016


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設
甲東園と芝川邸5 芝川又右衛門邸
甲東園と芝川邸6 阪急電鉄の開通
甲東園と芝川邸7 関西学院の移転
甲東園と芝川邸8 幻の銀星女学院と仁川コロニー


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

甲東園と芝川家5 芝川又右衛門邸

2023-04-20 16:55:05 | 芝川家の土地開発
さて、前回の記事では芝川又右衛門邸「洋館」と昭和2年に増築された「和館」についてご紹介しました。
しかし、明治44年に「洋館」が建設されて以来、その周りには様々な建物が建てられ、庭園が造られていきました。こうして整備された「甲東園芝川邸」の面積は7,500坪にも及んだといわれています。

園内はその時々に応じて土地を造成したり、樹木を移植したりと形を変えていったようですが、今回は昭和14年の敷地平面図を見ながら甲東園芝川邸内をご案内したいと思います。


昭和14年の甲東園別荘敷地平面図(千島土地株式会社所蔵資料K01_016_001)

①芝川又右衛門邸(洋館)

②芝川又右衛門邸(和館)

③茶室「山舟亭」と「不老庵」

茶室「山舟亭」(『芝蘭遺芳』より)
「山舟亭」は、茶人・高谷宗範の設計監督により、庭園は大分県の名勝・耶馬渓の趣を取り入れて造られたといわれています。山の中の風物の推移に応じて舟のように移動させることからその名がつけられ、当初は単独で建っていたものが、後に茶室「不老庵」とひと棟にまとめられました。

「山舟亭」については過去記事「芝川家のお茶会 ~大正2年の甲東園茶会~」でもご紹介しておりますので是非ご覧ください。

③茶室「松花堂」と④庭園(大正年間竣工)

溜池から見た茶室「松花堂」(千島土地株式会社所蔵資料P38_059)


和風庭園(千島土地株式会社所蔵資料P38_043)

もと大阪伏見町芝川邸にあった茶室「松花堂」を、大正期に甲東園に移築。移築に際しては茶人・高谷宗範の設計監督の下、付属広間や和風庭園も設けられました。
平面など詳細は過去記事「茶室「松花堂」の建築」でご紹介しています。

⑤「寿宝堂」

「寿宝堂」(千島土地株式会社所蔵資料P11_042)
二代目芝川又右衛門の傘寿(八十歳)の記念に昭和8年に建立された持仏堂。建築家・武田五一の設計で建てられ、現在は名古屋市に移築されています。
こちらも過去記事「二代目・芝川又右衛門 ~「寿宝堂」と「香山集」~」をご参照下さい。寿宝堂内部の観音像については、こちらの記事「興福院(こんぶいん)と芝川家」でも触れています。

⑥書庫(図書館)

(千島土地株式会社所蔵資料P11_039)
建築家・武田五一による設計で、校倉造の技法を取り入れたとされています。場所は調査中ですが、現在有力と考えているのが⑥の位置です。竣工時期も不明ですが、芝川家の蔵書については大正年間に『芝川甲東園文庫和漢図書分類目録』が作成されており、書庫の建設もその頃だったのではないかと推測しています。

⑦茶室「土足庵」

「土足庵測量図」(千島土地所蔵資料K01_048)より「土足庵」と思われる建物

「土足庵」は立礼式の茶室であったといわれていますが、写真も図面も残されていません。唯一残されているのが上記の資料で、この資料に記されたのが⑦の場所です。しかし昭和14年の図面には何も描かれておらず、どこかに移築された可能性もあります。

⑧洋風庭園



(千島土地所蔵資料P38_001:上、P38_052:下)

如何でしたか?芝川邸の全体像をイメージしていただけたでしょうか?

甲東園の整備について、二代目又右衛門の娘婿である塩田與兵衛が「私は樹を移したり、地を低めたりすることが大層なことと思いました。(中略)私には大袈裟に思われることが、翁(二代目又右衛門)には何でもなさそうなのが意外でありました。」(『芝川得々翁を語る』p.18-19)と振り返るように、甲東園芝川邸は、図面の描かれた時期によって建物や道路の位置さえも異なります。

このことからも二代目又右衛門が如何に時間や手間を惜しまず、丹精込めて甲東園の整備を行ったかを伺い知ることができます。


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景
甲東園と芝川邸4 芝川又右衛門邸の建設


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。










甲東園と芝川家4 芝川又右衛門邸の建設

2022-12-23 10:47:57 | 芝川家の土地開発
さて、果樹園「甲東園」開設後の明治44年、果樹園に隣接して2代目芝川又右衛門が別邸(以下、又右衛門邸)を建設します。

又右衛門が甲東園に別邸を構えた理由は明らかではありません。当時はまだ阪神急行電鉄西宝線(現・阪急電鉄今津線)は開通しておらず、甲東園を訪れる際には汽車で西ノ宮駅(現在のJR西宮駅)まで行き、そこから人力車に乗って、丘陵は徒歩で上るという不便さでした。しかし又右衛門は、自然豊かで広大な土地を所有し、そこで狩猟をする英国貴族のような生活に憧れを抱いていたといわれており、実際に、甲東園で友人達と共にウサギ狩りに興じることもありました。工業の発達で大阪の環境がどんどん変わっていく中で、隠居後は都会の喧騒から離れて暮らしたいとの思いもあったようで、天然の湧水が美味しく、新鮮な野菜や果物が採れる甲東園は、又右衛門にとって一種の理想郷であったのかも知れません。

又右衛門邸を設計したのは、「関西建築界の父」といわれる建築家の武田五一でした。
当時、武田は40歳前の若手。又右衛門がなぜ武田に設計を依頼したのかは分かっていませんが、芝川家は、武田が又右衛門邸以前に設計した住宅の施主である福島行信(実業家)、清野勇(医師)とも交流があり、こうしたことが関係していたのかも知れません。

武田は東京帝国大学卒業後、ヨーロッパに留学し、その時に触れたグラスゴー派やウィーン・ゼツェッション、アール・ヌーヴォーなど現地の新興の造形運動を日本に紹介したことで知られています。一方で、大学卒業時には茶室をテーマに論文を書き、京都や奈良の古社寺の修理保存にも携わりました。欧米の新しい造形と日本の伝統的な造形に共通点を見出し、それらを融合して新たな造形原理を創造しようと模索した建築家で、その武田による又右衛門邸は、杉皮張の外壁、網代組の腰壁や天井など和の趣が多分にあるものでした。






当初カーテンで仕切られたこの部分は、後に防寒のため扉が設置された。
(塩田與兵衛『芝川得々翁を語る』p/13-14)


竣工して間もない頃の芝川又右衛門邸
(上から:千島土地株式会社所蔵資料P40_011、P40_010、P40_013、P40_012)


大正時代の芝川又右衛門邸(千島土地株式会社所蔵資料P04_021)

又右衛門はフランス風の純洋館を期待していたようで、はじめは予想外に思ったようです。しかし茶道を嗜んだことから(又右衛門は近代数寄者としても知られています)、だんだんとその良さがわかってきたのだとか。

又右衛門邸は、当初は別邸として茶会や園遊会など社交の舞台として活用されました。

大正12年の花見園遊会を楽しむ人々(千島土地株式会社P38_041)

しかし大正12年に息子の又四郎に家督を譲って隠居した後、又右衛門は本格的に甲東園で暮らすようになります。

昭和2年には、高齢の又右衛門の生活に支障がないよう平屋の住宅(通称「和館」)が増築されます。こちらも設計は武田五一。生活の場を意識してか、殆どの部屋が和室でしたが、外観はスパニッシュ様式でまとめられました。従来の又右衛門邸((「和館」に対し「洋館」と呼ばれています)の外観についても、この時、増築部分に合わせたスパニッシュ様式への変更が行われたと考えられています。


増築後の芝川又右衛門邸(神戸大学建築学教室所蔵)


スパニッシュ様式に変更された「洋館」(千島土地株式会社P54_002)


「和館」サンルームにて晩年の又右衛門夫妻(千島土地株式会社P11_010)
又右衛門は殊にこの部屋が気に入っており、晩年はここで漢籍を読んで過ごすことを常としていました。

昭和13年、又右衛門は家族に看取られて甲東園で息を引き取ります。
その後、甲東園はしばし主(あるじ)を失いますが、昭和13年の阪神大水害や、太平洋戦争の空襲の激化によって芝川家の人々が甲東園に集まることになります。又四郎も御影の居宅が空襲で焼失したことから戦後は又右衛門邸で暮らすことになり、屋敷は子、孫へと住み継がれていきました。

しかし、1995年に阪神淡路大震災が発生。
又右衛門邸洋館は、煙突が倒壊し、室内の漆喰壁が剥落するなど大きな被害を受けました。



震災後の芝川又右衛門邸 外観と内部(千島土地株式会社保存資料)

半壊となった洋館に住み続けることは難しく、建物の解体が検討されますが、当時芝川家の当主であった又彦(又右衛門の孫)の強い思い入れもあり、幸運にも博物館明治村へ移築されることになりました。


明治村に移築された芝川又右衛門邸
こちらから明治村での様子をご覧いただけます。

和館については震災の被害も比較的少なく、引き続き住宅として使用されていましたが、2004年、老朽化などから解体されることになりました。千島土地では、和館のタイル、建具などを可能な限り引き取り、現在も大切に保管しています(一部は和館と同年に竣工した大阪の芝川ビルで活用しています:https://shibakawa-bld.net/2008/04/01/4_1/)。


甲東園と芝川家1 土地入手の経緯
甲東園と芝川家2 果樹園の開設
甲東園と芝川家3 果樹園の風景


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。



甲東園と芝川家3 果樹園の風景

2022-11-29 14:18:04 | 芝川家の土地開発

甲東園果樹園(千島土地株式会社所蔵資料P77_003_112)
これは昭和初期、芝蘭社家政学園の職員で甲東園を訪れた際の写真と思われます。
最前列の眼鏡の男性が芝蘭社家政学園を設立した芝川又四郎です。甲東園を開設した二代目又右衛門の息子ですね。


葡萄棚の下でランチ(千島土地株式会社所蔵資料P77_003_113)

続いてこちらは何かのロケ撮影かと思われます。

(千島土地株式会社所蔵資料P49_005)


(千島土地株式会社所蔵資料P49_006)
モデルの女性は宝塚歌劇団の団員さんとも伝えられています。実は甲東園、「宝塚グラフ」でご紹介いただいたこともあるんですよ!
昭和10年前後のものだと思うのですが、「収穫の秋(みのりのあき)」と題し、寶路みのる、牧川文美子、水尾みさを、御室雪子、夕映あかね、淀七瀬の7人の団員さんが果樹園のお仕事を体験するというもの。葡萄の収穫や梨の箱詰めという割と手軽な(?)作業だけでなく、草刈りや害虫駆除、殺虫剤散布という本格的な作業まで体験するという、なかなか本気の記事です。


果樹園作業風景(千島土地株式会社所蔵資料P40_016)


献上果物(千島土地株式会社所蔵資料P56_004)
こちらは昭和11年に神戸港で行われた海軍特別観艦式の際に献上された葡萄です。
果樹園で採れた果物は一部販売もされていたようですが、進物としてお知り合いに差し上げることも多かったのだとか。

果樹園を訪れた子供たちの様子も残されています。

(千島土地株式会社所蔵資料P40_084)


(千島土地株式会社所蔵資料P40_111)


(千島土地株式会社所蔵資料P56_017)
絵を描いているのかな?


(千島土地株式会社所蔵資料P56_022)
昭和6年には、甲東園果樹園に隣接して帝塚山学院の郊外学舎「仁川コロニー」が開設されました。
芝川又四郎は校舎の取得を援助するなど開設にあたり多大な貢献をしただけでなく、コロニーで過ごす子供たちが甲東園の果樹園や農園でも活動できるよう取り計らいました。この子供たちのお写真は、学院の生徒さん達なのかも知れません。

記事の最後は養蜂の様子です。

(千島土地株式会社所蔵資料P40_145)

(千島土地株式会社所蔵資料P40_147)
甲東園では、明治38年から養蜂に取り組みましたが、蜂が逃走し(!)失敗に終わったのだそう。
もし成功していたら、「甲東園はちみつ」が名物になっていたかも知れませんね。


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。

甲東園と芝川家2 果樹園の開設

2022-11-08 11:08:51 | 芝川家の土地開発
さて、二代目芝川又右衛門が貸金の抵当流れから手に入れた大市(甲東園)の土地。先の記事でご紹介した確証の地目から、その殆どが田畑であったことがわかります。しかし、それらは「1反歩5斗の年貢すら皆納せしことなき貧弱至極の地所」(『芝蘭遺芳』より)だったようで、用水池を開削するなど改善を試みますが、上手くいきませんでした。そこで、店員の岡本市太郎を派遣し、実地調査の上で今後の方針を探ることに。結果、水田としては水を保てず、畑としては旱魃に耐え難い、果樹を植樹するほかないとの結論に達し、試験的に果樹栽培が行われることになります。明治29年のことでした。

果樹園には、蜜柑や葡萄のほか、桃、林檎、梨、レモンなど様々な果樹が植えられました。また明治31年には、樅、栂、槇、桜、梅、サツキ、クチナシなど果樹以外の樹木を購入し、植え付けました。果樹以外の樹木の多くは後に売却されましたが、その一部は今も甲東園に残っているかも知れません。

なお芝川家の記録には、明治33年4月に果樹園の名称を変更することになり、「甲東園」に改称したとあります。ではそれまで何と呼ばれていたのか気になるところですが、現在のところ、それが明らかになる資料はまだ見つかっていません。残念!

さて、果樹園が開設されたのは、字・山畑新田。昭和15年の資料には、阪急電鉄西宝線の西側に「芝川農園」の記載があり、その位置を知ることができます。


「兵庫県武庫郡甲東村土地宝典」(昭和15年)より(千島土地株式会社所蔵資料K03_013)

そしてこちらの資料。詳しい年代は不明ですが、もう少し新しいものと思われ、農園の詳細を知ることができます。


「農園略図」(千島土地株式会社所蔵資料K03_002)
柿、桃、葡萄、李。よく見ると小さな文字で樹齢や前作の樹木名も記載されています。また、麦、いも、野菜の栽培ほか、鶏舎や豚舎も記載されており、養鶏や養豚が行われていたことがわかります。寒さに弱い豚さんのための施設でしょうか、豚舎の脇には210坪の「温熱暖床」も!


明治45年に洋館、昭和2年に和館が建設された「芝川又右衛門邸」との位置関係はこんな感じ。上の「農園略図」を反時計回りに90度、くるりんと回転すると、赤枠にすっぽり収まりますね。

青枠の芝川又右衛門邸についてはまた改めてご紹介したいと思います。


※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。