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ホーリーの日々

好酸球性消化管疾患、食生活、仕事、円形脱毛症、遊び、思うこと、、。

父と息子

2025年02月10日 10時27分00秒 | 糖尿病内科
母方の伯父(長兄)と祖父は、超がつくほど不仲だった。
世間的には父&息子という関係を互いに演じていたが、、、

しょっちゅう言い合いになって、
伯父に味方して欲しい!と相談し、
困ったに電話して仲裁を求める。
毎回、そんな感じだった。

祖父と娘婿にあたるとは非常に良好な関係だった。
そのため、が仲裁役を。

祖父伯父に対して、幼児期から厳しく育てたらしい。
これは私の想像だが、
長男として後を継ぐべき存在として恥ずかしくないように、、、
という思いが強かったのだろう。

学業成績も非常に優秀だった伯父は、
将来の夢もしっかり持っていた。
でも、なりたい職業には就かせてもらえなかったそうだ。
進学&職業など全ての権限は祖父が握っていたらしい。

時代は、昭和30年前後だ。
学生の伯父が逆らうことなんて絶対に出来なかったのだろう。

時には、皮のベルトで殴られたこともあった!と聞いたことがある。

それだけではない。
祖父は、女の子が欲しかったようだった。
男の子2人が続いて生まれ、
3人目にしてようやく生まれた待望の女の子だったを溺愛し始めた。
伯父からしてみれば、全然違う接し方をする父親に対して、
より反発も強まったんじゃないかな?

年々、不仲さは増す一方、、、。

私が小学校低学年の頃、
伯父祖父の元から一時的ではあるが、
去って行った。
このままでは祖父伯父の関係が本当に危険だ!と判断したは、
大勢の親戚たちの前で、
伯父に対し、語り始めた。
「兄貴(父が伯父を呼ぶ時)、
言い合いが出来る親父がいるの、羨ましい。
生まれた時から両親がいる、食べ物もある、
眠れる布団もある。
標準より遥かに恵まれた贅沢な暮らしをさせてもらってるじゃないか?
全ては父親という存在があるから出来た生活であると思う。
俺には、そんな親父が居なかったから、
家も他人の2階を間借りだし、
食べ物も無く、布団なんて夢のまた夢だった。
どんなに辛い環境の中での生活であっても、
愚痴を言える親父が居ない。
ワガママや喧嘩も出来ない。
困った時も相談出来ないから、1人で生きるしかなかった。
親父、見ていてくれ!
必ず俺、這い上がってみせるから!と心の中で言ってた。
でも、兄貴は直接、何でも気兼ねなく言えるじゃないか?
今までの俺の人生より、ずっと恵まれてると思う。
本当の親子なんだから、意見をぶつけ合って、
互いを理解すれば良いと思う

分かりやすく書いているが、
いつものDAD語で話していたようで、
「~に」「~を」「~と」「~も」「~は」「~が」
という助詞を取り去って話していた。

黙って聞いていた伯父祖父の元に戻った。
その後も完全に和解した感じではなかった様子だったが。
わだかまり?がまだ残っているような、、、

この時、母の次兄の自宅に親戚一同が集まって話し合いをしたそうだが、
私は祖父と一緒に祖父伯父宅(母の長兄)で過ごしていたから、
これらの経緯については、のちにから聞いた話。

息子の関係って、
仲良しの家庭と不仲の家庭にハッキリ分かれるようだ。
人間対人間だから、簡単に一言では言えないこともあろう。

ちなみに、我が家の仲良しというか、
一番の親友みたいな、、、
時間を忘れるくらいに談笑していたっけ?


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