成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子と大磯別邸の伊藤博文、そして東京 明治29年

2015年02月03日 | 歴史・文化
 浅子は、明治29年10月11日、東京に向かい、途中、大磯で下車、伊藤博文に面会したものと思われる。
 伊藤は、8月31日に総理大臣を辞任したばかりで(第二次伊藤内閣)、一方、別邸を小田原から大磯に移したばかりであった。大磯を気に入った伊藤は、翌30年、本籍を大磯に移したため、本邸となる。浅子は、この意味では、大磯詣での最初期の一人となろう。
 一方、成瀬仁蔵は、浅子より一足先に、7月下旬、上京、投宿先は京橋区銀座一丁目七番地西本方であった。しかし7月30日には、はやくも東京を出発し越後路(新潟)へ向かったので、東京滞在は3、4日でしかなかったと思われる。
 新潟は、成瀬が澤山保羅らの勧めで新潟教会の初代牧師として赴任、さらに新潟女学校を開校し校長になったところで、新潟を「第二の故郷」というほど成瀬にとって馴染みのある土地であった。8月14日頃まで新潟に滞在した成瀬は、15日(土)、再度上京したものと思われる。しかし東京滞在は長くはなく、8月22日(土)には帰阪している。
 新潟訪問の成果は、8月28日(金)の「創立事務所日誌」に詳細に記載されている。賛助員を承諾した者は、新潟県会議員、三条銀行頭取、三条米穀取引所理事長ら20名、賛成員を承諾した者は新潟県知事、新潟県立病院長、南魚沼郡長ら15名である。
 これに対して東京訪問の成果については、「創立事務所日誌」には記載がない。
 成瀬が三度目に上京したのが10月8日(木)である。そして浅子はその後を追うようにして11日(日)の夜行列車で大阪を発ち、おそらく翌12日、大磯で途中下車、伊藤博文に面会したものと思われる。
 麹町町区飯田町の三井別邸に滞在した浅子は、以後、東京滞在を続け、帰阪したのは実に12月28日の夕方のことである。そして大晦日の31日夕方には、「成瀬氏と会計取調べ」をしている。まさに本業を一時中断しての支援ぶりであり、かつ金銭の収支には厳密であった。
 これに対して成瀬は、10月23日帰阪、翌24日上京、11月20日帰阪、12月2日上京、25日帰阪というように上京・帰阪を繰り返していた。
 東京での最初の成果は、11月9日(月)、浅子からの来状の形で「事務所日誌」に記載されている。賛助員承諾者は近衛篤麿、澁澤栄一、大倉喜八郎ら5名、賛成員承諾者は、土方久元、牧野伸顕ら4名、賛成員承諾から賛助員承諾に変更した者は伊藤博文、西園寺公望、大隈重信、松方正義の4名、発起人承諾者は伊藤博文夫人・梅子、大隈重信夫人・綾子の2名である。
 このように「創立事務所日誌」には、浅子の八面六臂の活躍ぶりが際立っており、まだ知名度の低い教育者・成瀬が事業家、実業家の浅子から骨身を惜しまぬ支援を受けていることが読み取れる。