成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

新生の広岡浅子と伝道講演 受洗以後

2016年04月07日 | 歴史・文化
 明治45年のクリスマス受洗以後、新生の浅子は、宮川経輝牧師に同道して、関西以西の各地において伝道講演を行っている。
 浅子は、日本プロテスタント諸教派による協同伝道講演の講師として、紅一点といってもよいような存在であり、看板的な役割を果たしていたように思える。
 講師として、牧師の海老名弾正、神学者の牧野虎次、日野真澄らの錚々たる顔ぶれがいるが、宮川経輝牧師は、浅子を講師として重用(利用)していたように思える。
 女性を対象にした講演会をはじめ、地方の劇場や公会堂における一般聴衆や、小学校などの講堂を利用した学生を対象にした講演会などにおいて、最初に浅子が講演し、つぎに宮川が講演するというように、両者がセットで組まれている場合も少なくない。
 また教会における祈祷会の司会者として、浅子を初の女性司会者として任用している。
 また米国のアメリカン・ボードの使節や特使が来阪したときには、大阪の広岡邸で会食が行われ、ついで加島銀行で講演が行われることもあった。
 このようにみてくると、浅子は、夏の御殿場の広岡別邸におけるキリスト教講座や日本基督教女子青年会YWCAの夏期修養会とは別に、年間を通じて、キリスト教の伝道講演に貢献していることがわかる。
 大正3年11月、四国、中国地方における協同伝道会が開催されたとき、浅子は、宮川牧師、牧野虎次に同行して、講演している。6日、7日は、道後温泉で知られる松山、8日は高浜、宇品を経て広島へ、9日は呉で、10日は福山でというように、協同伝道の催しに貢献している。
 大正4年4月、東京地方における協同伝道の講演会では、15日、浅子は、婦人大会で新渡戸稲造、外村義郎と共に講演している。
 同年9月、奈良県の大和高田で、浅子は宮川牧師に同道し、1200名の聴衆を前に講演している 12月31日、大阪教会の祈祷会では、浅子は感話を依頼されている。
 大正5年、浅子は、11月、大阪における協同伝道の催しにおいて、また12月、九州地方における伝道講演に同道し、宮崎教会で講演している。
 大正6年には、5月、大阪で向日町教会において宮川牧師と共に講演を行っている。
 大正7年、浅子は、三井三池炭鉱の拠点地・九州の大牟田に、宮川牧師と共に向かい、宮川牧師を炭鉱の地下や新設の埠頭に案内し、三井倶楽部に宿泊、大牟田伝道所開所式で宮川牧師に講演を依頼している。
 宮川牧師は、前年から体調不調、意識不調を覚えていたが、翌大正8年1月14日、浅子死去の悲報を受ける。
 17日、加島銀行の星野行則が来訪、広岡家の葬儀の打ち合わせをし、19日、宮川牧師は大阪を出発、20日、東京に着き、すぐに広岡邸を訪問し、浅子の遺骸に接したが、「彼女の顔は平和で、聡明な趣きを宿していた」という。
 



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