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成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

クリスチャン広岡浅子と森村市左衛門 大正8年

2015年01月28日 | 歴史・文化
浅子も市左衛門もクリスチャンで、一方は晩年、他方は最晩年に、受洗している。
 大正8年6月28日、「広岡浅子刀自追悼会」が終わり、約2ヵ月後の9月11日、森村財閥の創業者・森村市左衛門が死去する(享年79)。
 日本女子大学校では、追悼会を2ヶ月遅れの11月11日(五十日祭の最初の命日)に開催し、「家庭週報」では、「故森村男爵追悼号」が組まれている。
 主催者の校長・麻生正蔵の追悼の辞をはじめ、来賓の大隈重信、渋沢栄一、大倉孫兵衛、法華津孝治ら錚々たる名士(評議員ら)の追悼の辞が掲載されている。
 事情は異なるにせよ、両者の追悼会が遅れて開催されたのは同じであるが、「家庭週報」での扱いは、一方は「特集号」が組まれ、他方は「特集号」が組まれていない。読みようによっては、ある種の差がつけられているともいえよう。
 大正8年、広岡浅子、成瀬仁蔵、平野濱、森村市左衛門が相次いで故人となるが、その内、特集号が組まれなかったのは広岡浅子だけである。松浦政泰については、特集号こそ組まれていないが、掲載されている追悼文や記事は松浦の方がはるかに多い。
 森村市左衛門は、帰一協会では、発起人、評議員、幹事を勤め、成瀬との密なる交流は最後まで続いていくが、浅子は結局、帰一協会には加わらず、軸足が軽井沢から御殿場へ移り、同地の広岡別邸での活動や、日本基督教女子青年会の活動に次第に傾注していくことになる。
 大正7年暮から翌8年正月にかけて、成瀬が国府津の森村別邸で避寒していたとき、森村は熱海で静養していた。
 成瀬は、大晦日の朝食のとき、元日に熱海の森村を訪ねる予定であることを仁科節に話した。しかし夜になって、熱海行きを中止し、急ぎ森村男爵に手紙を書いている。これは、隣の大隈別邸に大隈重信が滞在しており、朝食後、大隈から裏山に登ることを誘われ、中食も大隈邸で相伴し、体力を消耗、疲れてしまったからではないだろうか。
 一方、この日、成瀬は、新刊の広岡浅子著『一週一信』について仁科に話したとみえ、「けふ先生より広岡氏の『一週一信』につきてお話を伺ふ。それにつきて週報(「家庭週報」のこと)の自重を促がさる」と「仁科節日記」(12月31日)には記されている。
 その後、成瀬は体調が急変、急遽国府津から帰京することになるが、森村はひき続き熱海で静養を続け、2月、病床に臥せる成瀬に宛て、毛筆の見舞い状を送っている。
 浅子は、既述のとおり、晩年(M42)、成瀬の紹介で大阪教会の牧師・宮川経輝を知り、明治44年、受洗したが、市左衛門は、最晩年(T6)、死去の2年前、受洗している。
 市左衛門は、それ以前から教会に通っていたようだが、大正6年5月、好地由太郎の司式で受洗している。好地由太郎は、未成年のとき、強姦、放火などの罪で終身刑を宣せられ、23年の獄中生活を経て、牧師、巡回伝道師になった異色の人物である。市左衛門は好地の説教を好んで聴いたらしい。
  森村は、「私は、もともと仏教信者であるけれども、若い時、宗教が大きらいであった。ところが、貿易の取引で、欧米へ行ってみて初めて驚いたのであるが、、、中略、、道を歩いても、電車や汽車に乗っても、たがいに譲り合う気持ち、たがいに愛し合う心が強くて、実に愉快である。どうしてこのような社会道徳が発達しているのだろうかと、だんだん研究してみると、それは全く宗教信仰からきていることがわかった、、、」と述べている。
 森村は、欧米でキリスト教的なモラルが社会や家庭に浸透しているかなりよい側面を見て、また感じたように思われる。森村が、澁沢栄一や成瀬仁蔵に誘われ、帰一協会の発起人、評議員、幹事を承諾したのは、このような欧米での宗教見聞が関係しているといえるだろう。 一方、浅子は、明治42年暮、成瀬仁蔵の紹介で大阪教会の宮川経輝牧師を知り、翌43年夏、軽井沢の三井三郎助別荘に長期滞在し信仰を模索したが、そこで避暑に来ている外国人が教会に通い道徳にも篤いことを見聞し、森村とまったく同じことを感じていた。
 「もともと仏教信者である」森村は、帰国後、「そこで、私は初めて宗教の力が偉大であることを感じ、日本にも宗教を広めて、国民に信念を持たせることが第一だと考えた。日本に帰ってきてから、仏教を熱心に研究し、りっぱな坊さんにも教えを受け、お寺を二つも建てたが、不幸なことに、どうも生きた宗教とは思えなかった」と述べている(前掲書)。
 仏教に満たされなかった森村は、その後、「最もきらいだったキリスト教を研究し、自分が求めていたものはこれだと感じ、数年前に、キリスト教信者になった次第である」と述べている(前掲書)。
 森村は、広岡浅子、三井三郎助、大隈重信、渋沢栄一らよりやや遅れて成瀬仁蔵を知り(大隈の紹介)、以後、成瀬を強力に支援した。森村豊明会は、最初の支援の対象として女子高等教育の視点から成瀬仁蔵の活動を選び、日本女子大学校附属豊明小学校、同豊明幼稚園、教育学部、豊明寮、豊明館・豊明図書館などが誕生した。
 ちなみに、森村は大隈重信を信頼しており、政界を一旦下野した大隈が明治40年、国府津に別邸(和館)を建てたが(現存せず)、翌年、森村は大隈別邸の隣に敷地を取得し、森村別邸(和館)を建てている(一部現存、2014年5月15日の当ブログ参照)。
 大正期には、箱根をへだてて、海側の国府津や熱海に大隈重信、森村市左衛門、成瀬仁蔵が滞在し、山側の御殿場に浅子が滞在していたことになる。なお、大隈重信には、軽井沢にも、洋館・和館の別荘があった。















 




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