成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

軽井沢ショー祭 第17回 2016年 「避暑地軽井沢とテニス」

2016年08月02日 | 歴史・文化

8月1日、例年通り、ショー祭がショー記念礼拝堂前で開催され、出席しました。早朝、雨がぱらつくこともありましたが、午後は晴れて爽やかな緑蔭の集会になりました。
土井宏純司祭による点鐘、開会の言葉で始まり、聖歌斉唱後、渋澤一郎主教(日本聖公会中部地区代表)がカナダ生まれのケネディ少年がショー師との出会いが機縁となり後に牧師として来日したことについて、その関係性、意義などについて話されました。
参会者全員による献花のあと、藤巻進町長による挨拶、大久保 保実行委員長が医師であり考古学者でもあったマンローについて話されました。
来賓者、主催者が紹介されたあと、軽井沢少年少女合唱団による「蝉」など5曲の合唱があり、最後に参会者全員が手をつないで「今日の日はさようなら」を斉唱し、第一部が終了しました。
引き続き第二部・恒例の「アフタヌーン・トーク」が開催され、諸戸清郎氏(軽井沢会理事、テニス部委員長)が「避暑地軽井沢とテニス、軽トー100年と軽井沢会テニス部100周年の歩み」について話されました。
筆者は、ショー祭の始まる前に、軽井沢集会堂で開催されている「軽トー100年の歩み」展を拝見していたので、諸戸清郎氏のお話を興味深く拝聴できました。
 明治27年夏、各地の外国人宣教師たちが軽井沢に集まり、協議会が始まり、外国人専用の西洋式家屋の別荘が新築されたという。「水車小屋の三軒別荘」と言われるものがそれで、宣教師マクネアがつるや旅館の裏手の水辺に沿ったところに建てたものである。
 土屋写真館蔵の写真によると、三軒別荘には、蚕網で囲まれたテニスコートが写っています。三泉寮のテニスコートも桑畑を開墾して作られたというので、蚕網は色々に転用された可能性があるのでしょう。
 「軽井沢テニスクラブ」に日本人が係ったのは、諸戸氏によると、足立鐡之助『軽井沢の昔話』(S5)などの資料により推測すると、明治33・34年頃であり、高木舜三、松平慶民、黒田長和、竹屋春光(松平)、西尾(加藤泰吉)、足立鐡之助らが入部したという。
 高木舜三は、鳴海正泰『テニス明治誌』によると、樺山愛輔に硬式テニスを習い、2年後には樺山を負かす腕前になっていたという。また高木舜三は、軽井沢テニスクラブに入部した夏にAクラスで優勝しているという。
 高木舜三は、男爵高木兼寛の3男で、三井財閥・三井三郎助(小石川三井家8代当主)の長女多都雄(明治19生)と結婚している。NHK朝ドラ「あさが来た」のモデル広岡浅子は、多都雄の伯母にあたります。
 三井三郎助別荘が軽井沢愛宕山麓に建てられたのは、明治33年のことで、テニスコートがあった。三郎助の子息であり、当時、少年であった多都雄の弟・高修(明治25生、のちに小石川三井家9代当主)や高達(のちに三井松坂家当主)は外国人の少年少女らを自邸のテニスコートに招いてテニスに興じていました。
 高修は、その後、米国ダートマス大学に留学、米国で硬式テニスを習い、帰国後、東京小石川本邸には当時まだ珍しかった硬式テニスコートがあり、ニューヨーク時代に知り合った熊谷一弥(大牟田出身)を支援し、テニスコートを提供していました。 


























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