成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

成瀬仁蔵校宅と高村光太郎、そして新婚まもない三井高修夫妻

2017年09月15日 | 歴史・文化
 大正8年1月14日、広岡浅子、麻布の広岡別邸(ヴォーリズ設計)で死去、
そして約2ヵ月後の3月4日、成瀬仁蔵、目白台の日本女子大学校内の校宅(木造2階建)で逝去。
 この校宅では、結果として、成瀬をめぐる美術史上の多くの劇的な出会いがあったことになる。

 成瀬が逝去する直前、2月23日(日)、浅子の甥で、新婚まもない高修が夫人同伴で、病床の成瀬を校宅に見舞い、
揮毫された書を賜っている(成瀬は三井家のために複数枚、揮毫している)。

 また2月26日(水)午後、高村光太郎が、成瀬像の制作を、1回生の卒業生(井上秀、小橋三四ら)から依頼され、
 急遽病床を見舞っている。彼は、「仁科節日記」によれば、前夜、依頼されたらしい。

 また同日26日午前、ロシアの女流彫刻家・チェレミシノフ女史が、2回生(永井 駿、小林 珠ら)の依頼により、
 成瀬と面会している。

 光太郎は、当初、約1年後の完成を予定していたが、完成は遅れに遅れ、実に14年後の昭和8年にようやく完成する。
 光太郎は、その間、試作像をいくつか作ったが、完成作ができぬまま、徒に歳月が経過していた。
 
 その経過の中で、いわば「関連作」、あるいは「代作」、あるいは「競作」のような形で、いくつかの成瀬像が登場することになる。

まず大正8年、チェレミシノフ女史が「浮彫」(大正8年、石膏とブロンズ)を作り、卒業生らに頒布され、
 さらに「胸像」(石膏、制作年不詳、後年、ブロンズに鋳造)が制作されている。
 
  女史は、ロシアで、ロシア大使・本野一郎(のちに外務大臣)と親交があり、その伝手で日本に亡命し、
 大正6年、「猟装の本野一郎」(立像)を文展に出品、入選、翌大正7年、「三井八郎次郎」(胸像)を同じく
 文展に出品、入選している。

 また昭和4年、成瀬の没後10年にあたる節目の年に、高修が幼少時代に指導を受け、ある意味で恩師にあたる
 成瀬を偲び、「首像」(ブロンズ)を制作した。「首像」は、軽井沢三泉寮の大もみの樹の下に安置された。
 指導は、光太郎の美校時代の先輩・武石弘三郎による。
 武石弘三郎は、本野一郎と親交があり、チェレミシノフ女史とも交流があった。

 光太郎、チェレミシノフ、高修、これら三人の作者の内、幼少時代から父・三郎助、母・寿天とともに晩年まで、
 成瀬ともっとも交流があったのは高修(M25生)である。
 成瀬の後継者であり、かつ広岡浅子の薫陶を受けた井上秀(M8生)とは相性がよく、親しい間柄であった。

 また高修夫人の廣子(九州・島津家の息女)は、同じく昭和4年、「成瀬仁蔵小肖像画」(ミニアチュール)
 を制作している。夫婦で「成瀬」像を競作したことになる。

なお、これに先立って、大正8年2月14日、画家・柳敬助が、病床の成瀬のもとに、かねて依頼されていた
叔母の肖像画(油絵)を完成 させ運び込んでいる。「秦てる刀自肖像画」である。画布に油彩、45.5×33.5㎝。
 成瀬は、さっそく病室(校宅2階の寝室)の壁間に、この「叔母の肖像画」と父「小右衛門の肖像画」(油彩)
を並べてかかげたという。「仁科節日記・2月14日」




























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