成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

御殿場と広岡恵三&西園寺公望の別荘、新橋字便船塚

2015年10月16日 | 歴史・文化
 大同生命社長・広岡恵三の御殿場の別荘は、明治の元勲・西園寺公望の別荘の隣にあった。昭和14年当時の「御殿場町二ノ岡及其附近別荘略図」によると、新橋便船塚の広岡別荘は70番、西園寺公爵別荘、西園寺八郎様別荘は71番、勝又春一別荘(初代御殿場市長、衆議院議員)は72番という別荘番号がつけられている。
 西園寺公望や広岡恵三の別荘があった場所は、明治時代、駿東郡御厨町新橋(にいはし)字(あざ)便船塚といい、のちに御厨町が御殿場町と改称され、御殿場町新橋字便船塚となる。便船塚は、字の名称なのである。新橋便船塚は、現在、東名高速道路をはさんで富士山よりにあり、一方、二の岡神社、二の岡別荘地は箱根よりにある。
 西園寺別荘の土地は、登記簿では、大正11年9月、東京市麻布区飯倉片町の西園寺八郎(公望の娘・新子の夫)が取得している。しかし昭和15年11月、義父・西園寺公望が死去すると、翌16年9月、大阪市南区の住友吉左衛門に所有権が移転している。そもそも公望別荘は、大正11年、公望の弟・住友春翠により提供されたものなので、この所有権の移転は当然のことであろう。
 公望別荘は、近くの竈の小林家住宅を移築したもので、茅葺きの建物である。これは恐らく、近くの中畑にある樺山資紀の茅葺きの別荘に倣ったものであろう(2015年9月25日の当ブログ参照)。この茅葺きの建物を別荘として使うことは、避暑地・御殿場では一つの流れとなったといえよう。軽井沢では、このような傾向は認められない。三五荘は、山梨県塩山市からの移築である。
大正15年、井上準之助は深澤の小宮山家の茅葺きの建物を譲り受け、東田中に井上別荘96番をもうけている。昭和7年、井上が暗殺された後、井上別荘は、昭和16年、秩父宮家別邸として利用されたが、現在は、秩父宮記念公園として保存公開されている。
 戦後、昭和30年、西園寺別荘は、大阪市南区心斎橋筋の株式会社・大丸(百貨店)により取得され、保養所として利用された。しかしその後、平成19年1月、富士市中央町の株式会社・エンチョーに所有権が移転され、現在、その跡地には、ホームセンターのジャンボエンチョーが営業中である。


大正12年、便船塚の別荘から竹杖をついて近くの御殿場駅に向かう西園寺公望(75歳)