成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

広岡浅子、地位、門閥、財力

2014年09月30日 | 歴史・文化
 広岡浅子を恩人として仰ぐ小橋三四とは異なり、とくに浅子とはかかわりのないてい子にとって、浅子は地位と門閥と金力をひけらかす至って好かない老婦人としての印象が強かったようである。
「いつも洋装で堂々と講堂の演壇から私達を眼下に見下ろして、矢釜しいとばかり言ってお出ででした。、、、一目見た風貌からしても、世間普通の婦人達は傍へも寄付けないと言った様なピンと緊張した態度で、貧乏人の浅ましい僻目の故もありましょうが、地位と門閥と金力とを其高い鼻の先にひけらかす、至って好かない老婦人でした。思った事は誰の前にも憚らない、どしどし言う、考えていいと信じた事は即刻手を下すと言った剛邁果断な性質は前にも申した通り、地位、門閥、財力を兼ね備えた此の人にとって、どれ丈敵が多かったか察するに困難でありません」
 このような印象は、浅子ととくに関係のない一般の人にとっては、少なからず共有されるものではないだろうか。
 広岡浅子の金力、財力とは、どういうものであったのか。大阪の加島屋に嫁して、傾きかけていた老舗を女手ひとつで建て直し、さらに新規事業を起こし、隆盛に導いた手腕とはどういうものであったのだろうか。
 大正7年、広岡浅子は、十数年前嗣子に家督を譲る際には、僅かに銀行は十萬円の資金でありました。外に保険会社、殖産会社等、可成り手を拡げて居りましたが、まだ山のものとも海のものともつかぬ不安の状態であって嗣子初め重役等の骨折りも一と通りではありませんでしたと述べている。
 しかし其の後数年にして、事業も漸く緒についたので、家人重役打ち寄って、家憲の如きものを編みました。この中に純利を折半して、半ば基本金に積立て、半ばの五分の三は広岡本家別家のものとし、五分の一は重役に分ち、余の五分の一は永久に広岡浅子のものとして、死後もなお墓前に捧げられたい。これを以って社会公共事業を営んで行くようにしたいとの希望を述べ、皆も承認して、この規約に記名調印しました、と述べている(「什一の献物 若き人々へのわが言葉」)
 この家憲の如きものは、おそらく実家の三井家の家憲を参考にして、浅子流に作成したものであろう。てい子が金力、財力と言っているものは、このような五分の一の資金に基づいているものであろう。