成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

国府津以後、成瀬仁蔵・死の予感、そして広岡浅子の死去 大正8年

2014年09月09日 | 歴史・文化
  成瀬は1月6日、国府津から帰京、病状進行のただならぬのを予感し、9日、高木謙二博士を訪ね、診察を乞うことになる。
  成瀬は、自身の言葉によると、前年の9月、肋骨の下にかたまりが出来ているのを感じ、11月末、高木謙二男爵(医学博士)のところへ用事があったときに、それとなく診てもらっていた。そのときは肋膜を患ったことがあることから、そこがかたまって肝臓部を押し出しているのだから、肝臓よりもむしろ胸の方が心配かもしれぬということであった。
 しかしその後、肋骨下のかたまりは急速に大きくなり、国府津から帰京し、高木博士に再診を乞うと、尿の検査をし、「病院ものだ、病院に入れ」と言われる。
  その後、高木博士、二木博士、平井博士がいろいろ診察、血液検査の結果、肝臓の腫物で、今日の医術では治療が出来ないものであるという診断がなされることになった(「我が継承者に告ぐ」「家庭週報」第502号、2月5日発行)。
 一方、広岡浅子は、明治42年に乳がんの手術、その後も腎臓炎などをわずらったが、明治44年のクリスマスに大阪教会で受洗、以後、自身の言葉によると、神の御旨を標準として生き、大正8年1月14日、死去する。享年71。仁科節が国府津に携行した浅子の『一週一信』は、前年の12月に刊行されたが、その1ヶ月後の死であった。
 広岡浅子の死について、おそらく成瀬は自分の病状のこと、女子大学の今後のことで手一杯であったのであろうか。「家庭週報」第501号(1月24日発行)には、浅子から薫陶を受けた井上秀(桜楓会幹事長、のちに日本女子大学校校長)が「瀕々と到る死の教訓 嗚呼 広岡浅子刀自」という追悼文を巻頭頁に寄稿している。
 井上(M8生)は、京都府立第一高女で、浅子の娘・亀子と同級生、寄宿舎でも同室だった関係で、さらに勉学をしたいという秀を大阪の広岡家に住まわせて面倒をみたのが浅子であった。ちょうどそこへ成瀬仁蔵が女子教育、女子大学の設立のことで浅子を訪ねたところであり、浅子は「この人は今禅学をしてなかなか一生懸命に修養はして居るのでありますがどうもまだ矢つ張り一本調子で所謂カドがとれないからどうかひとつ先生の御主義の教育を受けさせたいと考えて居る所です」と成瀬に秀を紹介したという。当時、兵庫県丹波出身の秀は実家の井上家を継ぎ、養子をとり、既婚の身であった。