ちょこっと、息ぬき。

「いきいきと、生きていたいね。」

いきいきと、生きていたいね。(8) 

2006-03-18 00:49:04 | Weblog

★ 大学4年にもなって、「まだ生き方が定まっていない」という無力感に悩む。

 

  17、8歳でオリンピックの選手として活躍するとか、学生でありながらCNNのキャスターをしている人物がテレビ画面に登場するのを見て、「俺はなにをしているのだろう」とやりきれない気持ちにさいなまれていました。

 

  しかし友人たちが就職活動をし始め徐々に就職口が決まってきたときにも、「みんなが身の置き所を決めているけれども、わたしにはわたしの在り方があるから妥協はできない」と虚しい思いに悩みながらも安易な選択ができないでいました。

 

  いま思えば、もしももう少し柔軟な考え方をする私であったならば、もう少し違った選択をして違った人生を歩んでいただろうと思います。  でも私は私でした。

 

  私自身の思い方、感じ方がそうであったので生き方を変えることができませんでした。

 

  この頃はやった映画に「フラッシュダンス」という作品がありました。音楽も非常に売れて私たちの世代ではかなり広い範囲の人が知っていると思います。その映画の主人公はダンサーを目指しており鉄工所で働きながらダンスのレッスンを続けそしてオーディションを受け、最後には念願のダンサーとして脚光を浴びるというお話でした。

 

  わたしはその話と自分の生き方を重ね合わせ、「負けちゃいけない、今妥協するとあとで後悔する」と思いました。その映画で主人公を演じた『ジェニファー・ビールス』という人の名前は20年以上たったいまでも心に刻み込まれています。

 

  もう1つこの頃にいつも心にあった思いがあります。「もし自分が自分の臨終の床についているときにいろんなことを思い起こす気力があったとしたら、『あの時ああしておいたら良かったな。』と思うことほど切ないことはないだろうな」という思いでした。人生を閉じようとしている間際に、もうどう考えてもどうひっくりかえっても実現できないことを悔やむほどくやしいことはないだろうなという感じ方です。そう考えるなら今安易な選択をしないで、やれるところまで今やろうと思えました。たとえ失敗してもです。

 

  しかし、あきらめないけれどもいまの自分がなにを目指しているのかを具体的に見つけていないわけですからこれもこれでかなり苦しい状況でした。

 

  でも一歩前進し、自分の向かう方向がすこしだけ見えてきました。無人島に流れ着きこれから自分はどっちに進めばいいかというとき、方向を選択する情報や動機がなければ360度のどの方向に向かえばいいかわかりませんが、この時点のわたしには「こっちに行ってみよう」という方向だけでも見つけられて本当によかったと今思います。


いきいきと、生きていたいね。(7) 

2006-03-02 17:13:49 | Weblog

 まず、文系であった私が就職してする仕事を思い浮かべてみたら、研究・開発ではなくて企画・運営・営業であることは間違いありませんでした。

 

  「物を売る営業という仕事をするにしても、自分が本当にすばらしいと思っていない商品を『これはすばらしいですよ』などと人に勧めることはつらいな。」と思いました。『これはすばらしいですよ』と言わないまでも、自分自身が惚れ込んでいない物の売り上げを上げることに力を注ぐのは虚しいと考えました。

 

  でも仕事をして給料をもらい、得た金銭で物品や食料を購入して生活するということは生きていくためには必要なことなので、あんまりこだわりすぎたら自分が苦しくなるしそういう意味では考えが甘いのかなとも感じていました。

 

  でも自分の気に沿わないことをして40年も50年も過ごすのは非常につらいことだということは自分の気持ちの中には非常に大きくあったので、多少収入が少なくても納得のいく仕事を選ぶことにしました。妥協しないで。

 

  そのように考えて調べていくと、医療・福祉という分野に行き当たりました。その中でもいろんな仕事があったのでどれにするかが今度は新たな課題となりました。

 

  このようなことを大学3年の頃に考えていたはずなのですが、その年をどのように過ごしたかははっきりとは覚えていません。ただ、この年の5月初旬にバイクに乗っていて転倒し意識を失って救急病院に運ばれました。丸2日意識がなかったため、主治医は駆けつけた母親に「このまま意識がもどらないかもしれません。」と告げられたという経緯があります。

 

  幸運にも3日目に意識が戻り1週間か10日ぐらいで退院することができましたが、長い間寝ていたため筋力がかなり低下しており、歩いていても少し強い風が吹くと風が向かうほうに自分も進んでしまうほどでした。ですから、学校にはおそらく6月に入ってから行きだしたと思います。

 

  満員電車に乗ることがあんなにもエネルギーの要ることであるとはそれまで気づきもしませんでした。体力が落ちていたため、電車に乗ることが非常に怖かったです。その影響で必修の体育の単位も取得できないこととなり、4年生になってから1年生に混ざって履修することとなりました。

 

  この入院が影響したのか、なにか模索していたのか、3年という時期は過ぎ去ってしまったようです。