ちょこっと、息ぬき。

「いきいきと、生きていたいね。」

いきいきと、生きていたいね。(28) 

2006-06-30 10:26:16 | Weblog

★幼い頃住んでいた桜島を再びおとずれました。「アルバムに貼ってあった船の上の写真はこれか!」と桜島フェリーが海の上を走っているのを見て気づきました。

 

  1987年9月25日。幼稚園にあがるかどうかというときに一時鹿児島に住んでいました。写真のアルバムの中には溶岩道路や林芙美子文学碑などの写真があったのを覚えていますが、子供心に「ここはどこなの?」と思った記憶があります。

 

  その答えがこのとき出ました。まさに、子供の頃に写真で見た風景が目の前にありました。なつかしいような、不思議なような。しばらく文学碑の前で佇んでしまいました。

 

  この日の一番の目的は「佐多岬」です。国道224号線、220号線、269号線、佐多岬ロードパークを使いました。

 

  天気は快晴。日差しは真夏のままでした。ロードパークに入ってからだと思いますが、道端にハイビスカスのような花があちこちに咲いていました。

 

  「さすが南国!咲いている花が違う!」

 

  まだいたるところで工事中であったロードパークを突き進み、ようやく岬に到達しました。が、車を降りてから確かトンネルのようなくらい道をしばらく抜けていかないと岬の灯台へは行けなかったように思います。

 

  灯台からは種子島なんかがはっきり見えて、頭のなかにはなぜか「鉄砲伝来。いごよくふえる(1549)、種子島。」と小学校のときにおぼえたフレーズがよみがえってきました。

 

  きょうは少々感傷的で、知的な旅です。

 

  佐多岬をあとにし、国道220号線で日南海岸を北上、さらに10号線で日向市まで進みました。

 

  どこの駅だか記録に取るのをわすれてしまいましたが、駅近くの公園の前に車をとめて、「旭浴場」という銭湯に入り、「九龍」というラーメン屋で食事をしました。

 

  この店は35歳ぐらいに見える主人がやっているようで、奥さんは手伝っているようでいないようで、なぜかしら店の中をうろうろしていました。わたしがテレビのジャイアンツ戦を見ながら食べていたら、ちょこっと洗い物をしたかと思うとおもむろに友人らしき人に電話をし始めました。

 

  「パチンコ、行こ!今日は出るよ!」

 

  そしてだんなに「パチンコ行ってくるわ!」と言い残し、店を出る際に、わたしに向かって「あんた、ゆっくりしていき!」と言い放っていきました。店にいる間にわたしも少しは話をした間柄ではありましたが、こんな調子です。

 

  これが人情味のある風景だなと思いました。「ゆっくりしていき!」って言われて、うれしかったです。

 

  銭湯に入ったときにも人情に触れました。風呂から上がってコインランドリーを使っていたとき、閉店が9時なのを知らずにゆうゆうと過ごしていたらご主人らしき人が片付けに来ました。

 

  「もうお店、終わりですか?もうじき乾燥もおわりますから。」と言いましたところ、「それじゃ、家のもんがみな風呂上がったら来るから使っていてください。」と言っていただきました。

 

  南国九州の宮崎にて人の温かさやありがたさを感じながら、この日は延岡市内の国道10号線沿いのサービスエリアに車を止めて寝ました。

 


いきいきと、生きていたいね。(1987年の映画、歌) 

2006-06-29 00:29:41 | Weblog
私をスキーに連れてって

ポニーキャニオン

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  この頃、スキーが流行っていて日帰りのスキーにワンシーズンで8回も9回も行っていました。ユーミンの「恋人はサンタクロース」なんかを聴くと、この時期に考えていたことなんかが鮮明に思い出されます。

  トヨタのセリカという車が作品中に出てきてましたが、「こんなかっこいい車で彼女と一緒にスキーに行けたら幸せだろうなぁ」と憧憬の念を抱きながら映像を見ていました。

  でも、今思えばこの映画のストーリーは、言葉は悪いですがありきたりであったと思います。しかし、エネルギーのある若者たちがスキーというかなり体力を使うスポーツで発散していたこの時期に、音楽といい、出演者(三上博さんや原田知世さんなど)といい、雪景色というロケーションといい、車といい、若者たちの注目する題材をいくつも織り交ぜた売り物であったから爆発的にヒットしたのだなあと思います。これを仕掛けた人は見事だとつくづく感じます。

  


いきいきと、生きていたいね。(27) 

2006-06-28 10:59:06 | Weblog

★父親の仕事の関係で一時住んでいた鹿児島に入ります。「むかし、わたしはここにいたんだ。」と感じる風景に出会いました。

 

  1987年9月24日。阿蘇山の近くで夜を明かし、朝一番で「いざ、阿蘇山へ!」といきたいところでしたが、あいにくの雨模様。大山を通過したときも朝から雨でしたが、今日もかなりの降り。また、山にふられてしまいました。

 

  確か小学校のときの国語の教科書だったと思いますが、澄んだ青空の下に広がる目もあざやかな緑色の草原に何頭かの馬が草を食んでいる写真がありました。たしか右下に阿蘇山と書いてありました。その写真がわたしにとっての阿蘇山の姿でした。

 

  結局、わたしの頭の中にあった阿蘇山の様子と現実の風景を照らしあわせることはできませんでした。残念。

 

  気を取り直して国道57号線を熊本市内に戻り、九州自動車道にて南に向かいました。熊本インターから乗り、八代インターで下りました。国道3号線、219号線で人吉市へ抜けました。

 

  219号線は「球磨川」沿いに走っています。小学校のときに「日本の3大急流」のひとつとして名前を覚えた球磨川をそのときはじめて目にしました。わたしが見たのは下流域でしたので急流というより、逆にゆったりとした川に見えました。なぜだかこのとき小学校4年の頃にはやっていた、「ハチのムサシは死んだのさ」という曲が頭の中を駆け巡りました。

 

  221号線でさらに南下する途中に私の苗字と同じ名前の山を地図で見つけ、車の中でひとりで「こんなこともあるんだねぇー!」と叫んでみたりしました。毎日、人とあまりしゃべってなかったのでストレスがたまっていたからでしょうか、なんだかすっきりしました。

 

  えびの市にはいり当時「世界一」であった(今もそうなのかもしれませんが)ループ橋を通って再び九州自動車道えびのインターから鹿児島北インターまで一気に走りました。

 

  国道3号線でJR西鹿児島駅(いまは鹿児島中央駅と名前がが変わったと、たまたまその近辺出身の知り合いの方から先日教えていただきました)にいきました。ここに武町というところがあります。

 

  ここはわたしが3歳のころに1年くらい住んだことのある町です。20年以上も前の記憶をたどりながらおそらく住んでいた家であろうと思うところをビデオに収め、後日両親に見てもらいましたが大当たり!頭のなかにのこっていた4つか、5つの場面を頼りに探し当てました。

 

  周りの住人の方からしたら変に映ったと思いますが、頭に残っているわずかな記憶と現場の風景を一致させるためには大人の身長では要件にかないません。こどもの頃の目の高さで周りを見ないと子供のときに見た映像に出会うことはできないのです。「ここかな?」とおもう地点にたどり着くたびにひざまつき、目線を変えたりしながらしばらくその場にとどまるのです。

 

  「鹿児島でのおやつは、ボンタン飴とさとうきびが多かったな」などと思いながら、20年前に遊んでいた近所のアパートの敷地内にあった大きな木の下にその頃の自分の姿を頭の中で思い描いたりしてしばらく時間を過ごしました。

 

  この日は国道10号線、220号線、224号線で桜島まで行き、宮下港という港で寝ました。もう9月も終わりというのに気温は高く、車の窓を閉め切ったら暑苦しかったです。明日は本州最南端の佐多岬に向かいます。

 


いきいきと、生きていたいね。(26) 

2006-06-26 01:04:52 | Weblog

★福岡から、単身赴任している叔父を頼りに長崎へ向かいます。

 

  1987年9月22日。午前8時に福岡市中央区の祖父母の家を出発。国道202号線、35号線、206号線をとおり、いっきに長崎駅まで行ってしまいました。

 

  駅前で仕事を抜け出してきてくれた叔父に会い、まずは有名なグラバー邸を案内してもらいました。そこでいったん叔父とは別れ、ひとりで長崎の町の雰囲気を味わいました。

 

  天気は快晴、見下ろす海はきらきら輝いていてまぶしかった。また、小さな湾をはさんだ向かい側にも陸地があり、その標高の高い地点になにか大きな建物がたっていました。その壁面か窓かははっきりしませんでしたが、日光に反射してキラキラ光っていたのも非常にきれいでした。

 

  夜は叔父に思案橋に連れて行ってもらいました。「泰千代」という日本料理屋で楽しい会話とおいしい食事を堪能しました。

 

  1987年9月23日。この日も朝から天気がよく、さわやかな一日でした。叔父の勤め先の社員寮に泊めてもらったわたしは、朝起きてからすぐに観光に出かけました。

 

  大浦天主堂、21聖人、平和記念像、めがね橋を見て回りました。そして稲佐山にロープウエイで登りました。ちょうどこの日は金環食の日でしたので、ロープウエイ会社の方から借りた下敷きを日にかざして欠けた太陽を見ることができました。

 

  山を降りて叔父と別れ、国道34号線、57号線、251号線をたどり、こんどは島原市国見町多比良到着です。ここから有明フェリーを利用して熊本に渡ります。

 

  熊本の長洲に着き、県道を通って熊本城に向かいました。しかし、到着したのが午後6時過ぎでしたので城内には入れず、非常に残念でした。仕方なくその足で銭湯をさがし、新町3丁目の新明湯で入浴しました。その後、スーパーでビールや食べ物を調達しました。

 

  以前遠距離恋愛をしていた相手がこの熊本に住んでいました。気は強いくせに内面的には意外に弱く、すぐ近くの人を頼ってしまう性格の女性でした。結局、熊本に住んでいたわたしの友人といい仲になってしまい、わたしはひどく苦しめられることとなりました。

 

  わたしが熊本を訪れたのは、その彼女の不義理が発覚してまだ1年か2年しか経っていないときでした。まだすこし心がうずいていたように思います。

 

  さて寝場所を探さねばなりません。せっかく熊本に来たのですから、やっぱり阿蘇山を見なければいけないので、とにかく山に向かって走ることにしました。

 

  JR赤水駅の近くから阿蘇山道路に少しはいった地点で寝ることにしました。雨が降っていましたし、街灯もまったくないところでしたので非常に心細かったのですが、ラジオで「ヤングタウン」という番組のおかげで楽しく過ごすことができました。確か大阪毎日放送の番組だったと思いますが、わたしが中学にはいりたての頃、深夜放送を聞き始めたときに夢中で聴いていた非常になつかしい放送でした。

 

  はじめて来た土地で昔のなじみの深夜放送を聞いて、なつかしいのと同時にほっと安心させてもらい、ゆっくりと休むことができました。

 

  明日は鹿児島に入ります。

 


いきいきと、生きていたいね。(25) 

2006-06-24 09:13:58 | Weblog

★なじみの深い九州でしばらく過ごします。まずは福岡にある母親の実家に泊まらせてもらいます。

 

  1987年9月21日。昨日は午後の早いうちから、福岡市中央区桜坂にある母親の実家にて過ごさせてもらいました。この場所はわたしにとっても第2の生まれ故郷になります。2歳から4歳までこの地で過ごしました。

 

  近所にある警固幼稚園に通いましたが、母親が「この警固という地名は、昔中国が攻めてきたときにここにいっぱいの兵隊さんが集まって戦ったからついた地名なんだよ」と説明してくれたのを覚えています。当時はいまひとつ意味がわかりきれませんでした。また、この母親の話が歴史的に正しいのかいまもって不明です。(元寇?)

 

 

  それからこの地で忘れられないのは、「花電車」です。渡辺通りという交通量の多い道路がありますが、ここに以前は路面電車が走っていました。はっきりとは覚えていませんが、おそらく暑い時季だったと思います。電飾で飾られた路面電車が次々とやってくるイベントがありました。

 

  夜、ふだんは起きていない時間帯に祖母やいとこたちとはしゃぎながらその電車を見に行ったときの興奮はいまもはっきりと記憶に焼きついています。

 

  わたしがこの旅行でこの家を訪れたのが25歳のときでしたが、7年ぶりに再会した祖父は認知症の症状もかなり深刻で、わたしを孫だと認識してくれていたのかどうかはいまだにはっきりわからないような感じでした。

 

  でも2日宿泊させてもらったのですが、2日目の夜にわたしにこんなことを言ってくれました。

 

 

  「結婚するのなら、血液型はB型がいい。それからめがねをかけていない、健康な人にしなさい。年は上は2つまで、下なら10歳くらいはなれていてもよい。」

 

 

  その根拠はまったくわからずじまいですが、孫に対して言ったのか、それともたまたま居合わせた青年に人生の先輩として語ったのか?

 

 

  血液型に関しては、「祖父自身がB型だからじゃないの?」と実の娘である、わたしの母が言っておりました。

 

  現実は、妻はO型。めがねはかけていません。年も6つ下です。

 

  その祖父は認知症のため、本当はどこにも勤めていないのに毎朝、ネクタイをしめてスーツを着て出かけていたのです。日中どこでどうすごしているかは家人も知らない状態でしたが、夕方にはちゃんと帰ってきて、まず風呂にはいり晩酌をするという毎日のようでした。

 

  わたしが幼稚園にはいったころ、祖父はわたしにとって最大の宿敵でした。なぜなら、子供であるわたしの大好きな母親のことを呼び捨てにするからです。わたしの母は祖父の実の娘だから「おい、かずこ!これちょっとおとなりさんに持っていっておいてくれ!」と名前を呼ぶのはあたりまえですが、こどものわたしにはよく理解できません。

 

 

  母から聞いたのですが、「ぼくのママを呼び捨てにするな!くそじじぃ!」とわたしが祖父にむかって怒っていたらしいのです。たぶん祖父は苦笑していたことでしょう。

 

  わたしが次の地に向かう日の朝も、どこに行くのだか、ふだんどおりに出かけようとしていました。わたしが「じいちゃん、また来るね。元気でね。」と玄関先で言いましたら、「そうか、気をつけてな。」とそっけなく言って出ていきました。数年後に祖父はなくなりました。このとき聞いた言葉がわたしにとっての祖父の最後の言葉となりました。

 

 

 


いきいきと、生きていたいね。(24) 

2006-06-22 06:57:16 | Weblog

★本州の行程もいよいよ終盤。わたしの生まれ故郷をとおり、九州に入る予定です。

 

  1987年9月19日。鳥取県の大山のふもとで目を覚ましました。あいにく曇っていて大山は拝めませんでしたが、天候もかわることを期待しながら大山寺まで行くことにしました。でも結局視界は開きませんでした。

 

  そこから国道9号線に戻り、431号線経由で島根県の美保関に向かいました。ここでは天候は幸運にも快晴。雄大な海と、広大な空を同時に満喫しました。美保関灯台道路という有料道路を使いました。

 

 

  今日も強行軍です。国道431号線で松江市に抜け、9号線をつかってこんどは出雲大社へ向かいます。出雲大社では、巨大なしめ縄に10円玉を投げつけてきました。

 

 

  そこから9号線でこんどは益田市までいき、187号線を南下。この日は中国自動車道の六日町インターの南5キロメートル付近の空き地で就寝です。

 

 

  1987年9月20日。187号線、434号線にて山口県に入ります。まずは岩日線の錦町駅に向かいました。

 

  この町はわたしがまだ母親のお腹の中にいたころに両親が住んでいた町です。大学受験のときに必要だった戸籍謄本を見たときにこの町とわたしとの関わりをはじめて知りました。

 

 

  その矢先、朝日放送のニュースステーションで岩日線廃止を食い止めるための住人の方々の努力をたまたま目にして以来、「ここに行きたい」と思い始め、今回実現の運びとなりました。

 

 

  今度は錦帯橋です。ようやく立ち上がることができるようになったわたしが錦帯橋をバックにして川の中で素っ裸で写っている写真を思い浮かべながら橋を歩き、橋のすぐ脇にあるお土産屋さんの店員さんと談笑して過ごしました。

 

 

  ほとんど記憶にはないけれど、「ふるさとに帰ってきたなぁ。」という気持ちになりました。

 

 

  少々感傷的な雰囲気で、中国縦貫道山口インター向かい、いよいよ九州に入ります。父が大分県出身、母が福岡県出身。わたしも父の転勤で福岡と鹿児島の幼稚園に通ったことがあります。

 

 

  縁の深い土地へ足を踏み入れます。

 

 


いきいきと、生きていたいね。(23) 

2006-06-20 09:48:57 | Weblog

★20歳を過ぎた青年がやっとの思いで出た旅も後半戦を迎えようとしています。「これが日本海か!」

この日わたしはおそらく生まれて初めて日本海を見ました。

 

  1987年9月18日。北陸道の南条サービスエリアで夜を明かしました。敦賀インターチェンジで北陸道を降り、国道27号線と178号線を使って「天の橋立」に向かいました。

 

 

  股の間から眺めるとこれまたすばらしい眺望を楽しめるらしいのですが、わたしはそれをしてくるのを忘れてしまいました。いまだに心残りなので必ずまた行きます。

 

 

  そこからは国道132号線から再び178号線に入り、豊岡市経由で「鳥取砂丘」を目指します。

 

 

  178号線沿いを進むと途中に香住海岸というところがあります。その海岸線が終わるぐらいのところになるのでしょうか、「余部陸橋」という山陰本線の鉄橋があります。わたしがそこを通りかかった少し前になると思いますが、その鉄橋を通過中の列車が強風にあおられて鉄橋下の「かに工場」に転落したニュースを映像で見たばかりでした。

 

 

  この土地特有の自然の厳しさを感じるとともに、亡くなられた方々へ手を合わせてその場を立ち去りました。

 

  鳥取砂丘に着きました。砂丘にはごみがいっぱい落ちていて、がっかりしました。ごみを捨てる人の気持ちも悲しかったし、観光協会や行政も手をうたないのか不思議に思いました。でも、海という大きな力が運んでくるから仕方ないのかなとも思いました。

 

 

  でも、大きな雲のかたまりの隙間から海面にむかって陽が差し込む様は、「天から神様が舞い降りる」というような印象でした。非常に神々しく、荘厳な絵柄でした。時間を忘れて見とれてしまいました。

 

 

  こんどは国道9号線をとおり、東郷湖を経由して倉吉市内に入ります。「倉吉」という地名は高校野球で甲子園にも出場した倉吉北高校を覚えていたので知っていました。はじめてきたのになにか身近な気がしました。

 

 

  倉吉駅前の銭湯(旭湯)に入り、ラーメン屋で夕食をとったあと、寝る前に車の中で飲むビールを買って、大山に向かいました。

 

 

  この日はなかなかいい寝場所がみつからず、大山ふもとの中山町か名和町の、「中山中学 ~KM」とかいてある標識のある農道に車を留めて寝ました。

 

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いきいきと、生きていたいね。(22) 

2006-06-18 07:07:34 | Weblog

★「おお、久しぶり!」就職もせずに旅をしているわたしにその訳もさほど聞かずに、再会だけをすなおに喜んでくれるおおらかな親友に金沢で会いました。

 9月17日。能登半島の七尾湾西湾近くで夜を明かしました。今日は国道249号線で能登半島をぐるりと回って、金沢方面に南下します。

 金沢市内で働いていた親友とは彼の昼の休み時間中に一緒に食事をしました。高校の同級生なのですが、高校生のときはそんなに交流はなかったのです。ところが、卒業して大学に通い始めてからなぜか一緒に過ごすことが多くなりました。

 

 金沢は近代的な町並みのすぐ裏側には昔ながらの落ち着いた町の雰囲気があり、とても素敵でした。なまふがおいしかった。

 この日はまだ夕方の4時くらいだというのに見つけた市内の銭湯(大和湯)で入浴し、国道8号線で福井に向けて距離をかせぎました。

 日が暮れてから雨になり、前方が非常に見にくい状況でした。対向車の水しぶきはあがるは、ライトが反射してまぶしいはで、車の運転をしはじめたのがこの旅行がはじめてのわたしには負担でした。  

 交通量が少なければ自分のペースで進めますが、この国道は大型トラックやら普通乗用車やら各種織り交ぜてのにぎやかな道でしたのでまだ夜間の走行に不慣れだったわたしにはきつかったです。

 国道8号線で加賀市まできたところで、北陸自動車道にのりこの日は敦賀湾のすぐ近くの南条サービスエリアで寝ました。

 雨が車の屋根をたたく音を聞きながら眠りにつきました。

  


いきいきと、生きていたいね。(映画「フラッシュダンス」) 

2006-06-18 06:32:10 | Weblog
フラッシュダンス

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 わたしが、「自分はどういうふうに生きようか?」と悩んでいたときに心の支えになった映画です。映画で使われた音楽もいまだに聞いています。(いきいきと、生きていたいね(8)にこの映画と私の接点について書いています。)

  わたしはダンサーではありませんが、「こうなりたい、こうしたい」と方向が決まったらひたすらその実現または成功を信じて努力しつづける主人公に共感しました。

 この映画を見ていて励まされました。

 


いきいきと、生きていたいね。(21) 

2006-06-16 06:45:24 | Weblog

★旅も前半戦が終了です。北海道から下宿にいったん戻り、その日のうちに長野方面に出発です。

   9月15日。昨晩、函館をフェリーで出発し、朝方東京に着きました。これまでの2週間連れ添った高校の後輩を下宿に送り届けました。ここでお別れです。

  わたしはこの日の昼過ぎにひさしぶりに部屋に戻りました。でも旅の緊張感を持続するためにはその日のうちに後半の旅に出たいと考えました。

  午後6時、中央高速道で諏訪方面に向かいました。今夜は諏訪湖を臨むサービスエリアで就寝です。

  9月16日。伊北インターチェンジでおりて、塩尻市、松本市を通り抜け、大町市経由糸魚川市まで行く計画です。  小学校か中学校のとき、「フォッサマグナ」(大地溝帯)というものの存在を教えてもらいました。日本を分断するくらいの大きな地層のずれのことのようです。この日、わたしがたどったコースはまさしくその地層の境界線の真上でした。

   道はいたるところで工事をしていました。山あいのかなり険しいコースで、トンネルをつなぎ合わせたような道でした。舗装されていない部分も何箇所かあり、交互通行になっている場所もありました。

  糸魚川に着いて日本海を臨み、こんどは能登半島制覇の行程に進みます。国道8号線を突き進み、富山市をぬけて国道160号線、249号線を使って七尾市内になるのでしょうか、中島町のパーキングエリアで寝ることにしました。

 

  中島町の少し北に穴水町がありますが、友人の出身地です。この日はその友人のことを思いながら、休みました。  明日は金沢の親友に会う約束になっています。