ちょこっと、息ぬき。

「いきいきと、生きていたいね。」

いきいきと、生きていたいね。(4) 

2006-01-30 22:20:44 | Weblog

 不二家でも働きました。ちょうど不二家がファミリーレストランをにつくる計画があり、そのための調査をする仕事でした。この仕事は単発でした。

 

  のどこに店を構えたら客が来るかを調査するのです。その方法とは、競争相手である例えばデニーズ、ロイヤルホスト、スカイラークのすでに営業している店を回り、その店をどれくらい客が利用しているかを調べるというものでした。

 

  仕事を始める時間は任されていました。私は8月のある日、私鉄のある駅に降り立ちました。駅を降りて交通量の多い道路に出るとそこに何軒かファミリーレストランがあり、順番に入っていきました。

 

  どうやってその店の利用客数を知るかというと、その店のレシートをもらってくるのです。その中にその日の何番目に発行したレシートかが記入されているというのです。

 

  ひとつのお店で使える金額は500円と決められていました。例えば、1つ目の店でガムを買い100円使ったとしたら、次の店では900円使っていいということです。店に入るたびに飲み物や食べるものを注文していたら、お腹も苦しくなるし時間もかかるので、私は1つ目の店に9時くらいに入り、お菓子や人形を買ってレシートをもらい、昼ころに食事をして、また移動して小物を買って店を出てきて、真夏でもあったのでのどが渇いたらレモンスカッシュを飲んだり、宇治金時を食べたりしました。

 

  1日で8軒か9軒回ったと思います。1軒500円使っていいので9軒で4500円分の飲食または購入が許されました。購入したものは自分の物となります。でも、ファミレスに入って入り口近くの人形やガムを買ってそのまま帰っていく客はあまりいないと思うので、最初は少し抵抗がありましたが、やっていくうちに面白くなってきました。

 

  だいたいどういうコースを進むかは考えていきましたが、いまのようにネットがあるわけでもないので、ある店を出てから次に行こうとする方向にどうやって行けばいいのかは前もっては調べ切れなかったので、道行く人に「~という駅にいきたいのですが、ここからどうやって行ったらいいですか?」などと尋ねながらの行程でした。人に会えなかったり、かなりの距離を歩いていてもバス停がみつけられなかった場合、とにかく前に進むしかなかったのです。そういう意味では、このバイトは仕事とはいえ、ふだん来たことがないところでのことですので旅行に来ているような面白みを味わうことができました。

 

  バイト料は1店につき500円の飲食代と購入物、それから1店目でもらったレシートの時間から最後の店でもらったレシートの時間までを時給500円で計算されるというものでした。なので、朝9時にレシートをもらい夕方5時半に最後のレシートをもらったとしたら、1日の現金でのバイト料は4250円です。交通費はもちろん別途もらえます。

 

  朝7時半頃に家を出て夕方7時に戻ってくる仕事としては効率が悪いとはいえ、旅行気分を味わいながらでしたので、非常に楽しかったです。しかも1日目に行った道筋を次の日も同じ時間、誤差30分以内でたどらなければなりませんでした。最初から2日でワンセットという依頼でした。どういうコースをたどったかははっきりとは思い出せませんが、歩いていたとき歩道橋の横面には「原宿」と書いてあったのを見て「ここにも原宿があるのか」と思った記憶があります。

 

  真夏の暑い日ざしの中でのバイトであったので、しかも楽しみながらであったので非常に鮮明にこの2日間の記憶は残っています。いまもあるのでしょうか、わたしは「マリナ・デル・レイ」という会社のタオル地のTシャツを着ていました。それから、ちょうど「チューブ」の「ストップ・ザ・シーズン・イン・ザ・サン」がはやっていたので、この曲を聴くといまでもこの2日間に見た風景が鮮明によみがえってきます。

 

 


いきいきと、生きていたいね。(3)

2006-01-29 02:10:26 | Weblog

 4月に入学式を向かえ、大学1年生となりました。恵まれていたことに学費は親が出してくれ、生活費の半分くらいをアルバイトで稼げばいいという状況でした。サークルで友達でも作ろうと思いソフトボールのサークルに入ろうとしましたが、学校の構内で会う約束をした先輩が約束の時間に現れず、話が立ち消えになってしまいました。

 

  さほどサークルに執着がなかったのでさっそくアルバイトに専念することにしました。自分がどういう仕事をしたいかをつかめないでいるのだから、アルバイトをすることによっていろんな仕事を楽しみながら見てみようと思いました。

 

  知り合いに恵まれていたこともあり、家庭教師を2~3軒させてもらいました。教えていたのはみんな中学生でしたが、そのうちの一人はなにが良かったのか絶対合格できないと担任の先生に言われていた高校に受かり、一緒に合格の喜びを味あわせてもらいました。その子の家は商売をしていたので、受験がおわったあともその商売を手伝うアルバイトをさせてもらいました。不思議な縁なのですが、いまだにそのお家とはおつきあいさせていただいています。毎年クリスマスには我が家の息子たちに手作りケーキを送ってくださいます。

 

  モスバーガーでも働きました。夜中の2時まで営業している店でしたが、午後10時に仕事に入り4時間接客したあと、30分休憩し、午前5時までメンテナンスをしていました。営業時間中は注文を聞きながら必要なパン(バンズ)と肉(パテ)を鉄板の上にのせ、チキンカツやアップルパイやポテトを油の中に入れ、洗い物をし、そうこうしているうちにパンや肉が焼けてきたらハンバーガーを手早く作り、袋のなかに「パン!」といういい音を立てていれ、手際よく紙でくるみ、テープをはって、お渡しする袋に詰めて、会計をする。その間にも揚げ物の加減をみながら、さらに新しい注文に必要なパンや肉を鉄板にのせる、というめまぐるしく濃厚な時間を過ごしました。ソフトクリームもメニューにあったので、何回も練習をしましたが、はじめて注文してくださったお客さんに「お待たせしました!」とわたしたときにアイスの部分がボロッとまるごと床に落ちた光景はいまだに昨日のことのように鮮明に覚えています。

 

  休憩のときにはハンバーガーを2つ食べてよかったのです。4時間ではありますがフル回転で働いたあとに食べるハンバーガーは格別にうまく、このときテリヤキバーガーにコショウを振って食べたらおいしいことを店長より教えてもらい、いまだにそうしています。

 

  休憩が終わるとこんどはメンテナンスです。パンや肉を焼いていた大きな鉄板についた油ををきれいに洗い流し、そのあと紙やすりできれいに磨くのです。これはかなりの重労働でした。真冬でも額から汗がしたたり落ちました。

 

  その次に大変なのは、アイスクリーマーの洗浄です。アイスクリームは乳製品なので雑菌が繁殖しないように、洗浄したあとに消毒をしなければなりません。そのために器械の部品をすべてバラバラにしてその作業をおこないます。部品ひとつひとつについているゴム製のパッキンなんかも全部とりはずして消毒します。なので、部品を全部ばらす→洗浄する→消毒する→組み立てなおすという工程をたどることになります。

 

  あとは床をはいたり、みがいたりしますが、驚いてしまったのは排水溝の掃除です。排水溝にはその日焼いた肉の脂も流れ込んでおり、洗い物に使った水に触れて、排水溝の中で白い塊になっているのです。ラードというのは豚の油ですが、それと同じようなものが排水溝、排水槽にしこたまへばりついています。それをへらでこそぎとるのです。「こんな油がいっぱい体にはいったら、血管つまるだろうな。」と素人ながらに怖ろしくなりました。

 

  いろんな神経をつかうことをこの仕事で教えてもらいましたが、じつはそれ以上にここでのアルバイトで学んだことがありました。この店のオーナー店長は、私が20歳前後のときにおそらく30歳前後だったと思います。自らもシフトにはいり、店内で働いていました。しかし、ときどきずる休みをしていました。とくによく覚えているのは「かぜをひいて熱が38度もあるから今日は休む」と連絡してきたにもかかわらず、どうも近くの居酒屋で女性たちとわいわい酒を飲んでいたことがありました。なじみのお客さんが教えてくれたのです。いい気持ちはしませんでした。このエピソードは、わたしにとって「リーダーとはどうあるべきか」を考えるときに必ず思い出すお話です。

 

   


いきいきと、生きたいね。

2006-01-26 22:46:36 | Weblog

 かなり一生懸命に勉強したつもりでしたが、現役のときは一校も合格しませんでした。「勉強をして大学に行って~をしよう。そして~の仕事をしよう」というようなはっきりとした目標はなく、「大学に行ってから何かみつけよう」ぐらいの気持ちでしたから、中途半端だったのでしょうか。

 

  めざしたのはかなりの難関校でした。なぜ志望したかというと、難関であったからです。英語には興味があったので「英文科にでもいこう」ぐらいの思い方で、その学校に入学して何を勉強するのかもいまひとつわからないまま、合格する努力を続けていたのです。いま考えたら自分のしていたことに空しさを覚えますが、当時はわかりませんでした。

 

  結局2年間予備校に通い、志望校には合格できませんでした。でもありがたいことに、予備校で世界史を教えていただいた先生にひとつの転機をいただくことができました。「歴史を動かすのは人間で、いま生きてる私自身も歴史のなかにいる」ということを気づかせてもらったのです。ごく当たり前のことなのでしょうが、暗記中心の勉強の仕方しかしていなかった私は目を見開かされるような思いがしました。

 

  これをきっかけに私は人の心理に興味をもつようになり、心理学を勉強したいなと思うようになり、大学に通っている高校の先輩達に心理学とはどんなことをするのかときいてまわりました。でも、心理学と一言でいっても幅が広くて私は理解しきれなかったのです。それなら、少し広い視野で物事を見ることができると先輩が教えてくれた社会学をやってみようと思ったのです。入学したのは社会学部の社会学科というところになりました。 


いきいきと、生きていたいね。

2006-01-25 21:47:38 | Weblog

 最近、ふと思うことがあるのです。もし高校生のときに、自分の内面についてや自分の生き方についてアドバイスをもらえる機会があったら、わたしの大学在学中の過ごし方はもう少しましだったたのではないか?と。

 

  中学1、2年は毎日ただ無邪気に友達と遊んで過ごしていました。さすがに3年生は高校受験を控えていたため、多少緊張していました。勉強もしました。

 

  入学した高校は全寮制でした。まじめに考えすぎたのか、「中学は遊んですごしたから、高校では一生懸命勉強をしよう。親元を離れてやってみよう」という流れに従った選択でした。

 

  最初の頃は充実してました。でも、高校2年になってから「なぜ私は大学に行こうとしているのか?なぜ大学で勉強する必要があるのか?」という疑問にぶちあたりました。

 

  中学のときには私は私なりに自分に向き合い、自分というものを確立してきたのでしょうが、その機会が少なかったからでしょうか、ようやく17歳になっていろいろと考え始めたのでした。

 

  でも、時間はどんどん過ぎていきます。そのときの私一人では、自分の時間の使い方を変えていく、または自分のあり方をかえていくことは到底できませんでした。とにかく受験勉強を続け、大学受験をすることになりました。