ちょこっと、息ぬき。

「いきいきと、生きていたいね。」

いきいきと、生きていたいね。(6) 

2006-02-18 01:55:24 | Weblog

 ほかにも、公文式算数教室で採点しながら教える仕事や、塾の講師、高校の後輩の実家でやっていたパーテーションの仕事の手伝い、劇場のロビーのタイルの張替え、それから帰省時には父親の仕事の関係で紹介してもらった土木作業などをしました。

 

  それぞれの仕事はそれぞれの面白みがあり収入にもなったので非常に楽しく過ごせたのですが、でも時間を切り売りしているような気がしていまひとつすっきりしませんでした。

 

  アルバイトには行くのだけれども学校の授業には行かない日々が続き、1年生の終了時にはわずか10単位しか取得できていませんでした。必修の外国語3科目がそれぞれ2単位で計6単位、それからゼミの4単位のみだったんです。幸い、1年間に最低何単位をとらないと次の学年に進めないという規則はなかったため留年はしないですみました。

 

  しかし卒業までには140~150単位は必要であったので、2年生の時は心をいれかえて朝から晩まで学校で授業を受けていました。これもかわった規則ですが、1年間に取得できる単位数にも制限はなく、私は90単位くらいの申込みを年の初めに出し、結局82だか84単位を取得しました。こんな生活をしていたので、この時期に急に遠方から遊びに来た友人と会う時間がとれず、「私が通っている学校の授業を一緒に受けてみないか」と誘い、一般教養の宗教の講義を親友と受けたことがありました。

 

  中学のときは無邪気に遊んで過ごしました。高校のときは「中学のときに手放しで遊んでいたから、これからは少しまじめに勉強しよう」と考えてやみくもに勉強することを選び、大学に入ってはその反動で無気力になり怠惰な1年を送り、これまたその1年を取り返すために2年生のときは学校にいりびたりなるというありさまです。

 

  ビジョンがない、目標がない。

 

  「高校在学中に、『おまえはなんのために勉強するか?』といってくれる先生に出会いたかった」などと、人に頼るような考えをわたしはいまもっていますが、わたしは大学の2年を終えた時点でようやくその課題に立ち返ることとなったのです。

 

  おそまつといえばおそまつな生き様です。でも、恵まれた時代に生きていることの恩恵といえば恩恵かもしれないと思います。しかし、生きていくうえでは動機が必要です。

 

  わたしは大学3年になって「おれはどんな風に生きていこうか?生きていくためには仕事をしていかなければならい。どんな仕事をしようか?」と遅まきながら具体的考え始めました。そう考えるようになるまでもいつも心になにかひっかかりがあってすっきりせず、いつもどんよりとした気持ちで過ごしていました。こんどはすこしは前進したものの、答えをみつけられない苦しみを抱えつつ生活することになりました。

 

  「俺はなにをしたいんだろう?」「どういうふうに生きていきたいんだろう?」

 

  悠長な話ですが、本当に私はこの時点でそう思い、そして動き始めることとなりました。アルバイトでいろんな仕事を見てその中から決めるとしてもそんなに多くの仕事に触れることにもやはり限りがあります。自分の身内や知り合いがやっている仕事を見たことがあってそれを自分もやってみようなどと感じる機会にもめぐまれなかった私は、学校の図書館に行ってそれに関して答えをくれる本はないかを探し始めました。  いまのように「世の中にはこんな仕事があります」といった解説本が書店に売っていたわけでもなく、インターネットもない頃でしたので地道に探しました。わたしが見つけたのは、業種の分類の統計資料だったと思います。大きく分けて「営利団体」と「非営利団体」がある。そのそれぞれに属する業種、たとえば農業とか林業とか工業とか、工業のなかにも製造業があったり鉄鋼業があったりという分類の表をまずてがかりにしました。いま思えば新聞の株式のページを見ても同じレベルの情報を得ることができるのですよね。

 

  なんの方向性も見出してなかった、もうすでに20歳を過ぎた青年が見事に遅い第一歩を踏み出したのです。

 

 


いきいきと、生きていたいね。(5) 

2006-02-06 00:56:26 | Weblog

 ヤマトの宅急便でもバイトをしていました。

 

  朝5時からの荷物の仕分けという仕事です。10トントラックで運ばれてきた荷物を地区ごとに分けて、地区担当のドライバーが朝8時に出勤してきたら車に荷物をすぐ積み込んで出発できるようにするのが役目です。

 

  夏場~秋口に荷物として送られてくる桃にカブトムシがよくしがみついていました。  朝5時15分に仕事開始で7時から20分ほど休憩をとったと思います。道をはさんだ向かいにあったセブンイレブンでパンやブリトーを買って食べました。

 

  ある日の朝、いつものように3~4人の仕事仲間と休憩時間に談笑していたら、突然、営業所横のアパートの窓が割れて火柱が上がりました。日本語というものは表現力があるなと思いますが、本当に火の太い柱が空に向かって立ち上っていった瞬間を見ることになったのです。

 

  すかさず119番通報をしましたが、かなり虚しい思いにさいなまれたことを今でもはっきりと覚えています。それというのも、その燃えさかっていたアパートの100メートル以内のところに消防署があったからです。そんなに近くで火災が起こっているのにその消防署の火の見やぐらには人影はありませんでした。

 

  消火活動が始まりました。始めのうちは消防自動車は出動せず消防署から直接ホースを持った消防士が走ってきました。そして時間が経つと同時に、数台の消防車がやって来て放水をし始めました。私たち通報者も、ホースがからまっているのを水が通りやすいように移動するのを手伝いました。

 

  幸いにも死傷者はでなかったと記憶していますが、その日の後半の仕事はほとんどできずじまいでした。でも、バイト仲間たちは何か成し遂げたような満足感を感じたように思います。

 

  この朝の仕事の関係で営業所の責任者からの依頼があり、引越しの仕事もときどきやらせてもらうことができました。そのうちの1回だけ、いまだに忘れられない日があります。

 

  いつもの引越しよりは少しきついかもしれないということは伝えられていました。そのとき動員された5人のうちの2人は大学でラグビーをやっていました。その現場とういのは、パン教室でした。室内にはいるなり、すこしいやな予感はしました。冷蔵庫は自分の背丈を越えるものが5~6台、それより少し小さなものが3~4台。そのほか料理教室によくある、シンクタンクと調理の台がセットになった金属製品が10個ほど、あとパンをのせる金属製のパンやパンを焼く釜などがありました。

 

  金属製品が数多くあり、またかなり重量のあるものが多数あったため、仕事をはじめたのは朝の9時頃であったのに、終わったのは午後10時ちかっかったと思います。5人でやる仕事でなかったので翌朝営業所の責任者とかけあって、当初のバイト料の1.5倍の料金をもらいました。ほんとにきつかったです。

 

  このヤマトでのバイトでは、将来自分の選ぶ仕事の、体を使う割合と頭を使う割合を考えさせられました。ある程度の年齢まで働き続けるためには、体に物理的な負荷をかけ続けることもできないし、また体に負荷をかけないならそのかわりに頭脳を使う作業もしないといけないと思いました。どのようにバランスがとれるのだろうか?もしバランスをとるとしたら、自分の思うようなバランスがとれる仕事があるのだろうか?

 

  この頃はそんなことを考えながら過ごしていました。