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チェロローグ + へようこそ! 万年初心者のひとり語り、音楽や身の回りのよしなしごとを気ままに綴っています。

サン=サーンス『動物の謝肉祭』を聴いて

2019年12月27日 | 音楽で考えた
Saint-Saens: CARNAVAL Des ANIMAUX. M. Argerich, N. Freire, pianos, G. Kremer, vn, M. Maisky, cello. et. al. A. Ridout: Ferdinand; for speaker and solo violin, Little sad sound; a melodrama for speaker and double-bass. F. Meschwitz: Tier-Gebete. recorded in 1981, 1985, 1987. Philips, 416 841-2


私と「動物の謝肉祭」
「白鳥」小学校の時の下校の音楽でした。そして、音楽の時間に聴いたのが「動物の謝肉祭」でした。これが私の最初の「謝肉祭」体験でした。
それはさておき、だいぶ前に購入したこのCDは、ギドン・クレーメルとその仲間たちによる「動物の謝肉祭」です。室内楽版での演奏で、アルゲリッチ、フレイレ、そしてマイスキー等豪華顔合わせによるアンサンブルで、名人たちのエッジの効いた演奏が楽しめます。私はマイスキーの「白鳥」が聴きたくて購入したのですが、「謝肉祭」全体を通して聴いたのは今回を入れても2、3回かな(笑)。
サン=サーンスは、なぜ、このような室内管弦楽曲を書いたのでしょうか。その辺の事情は説明されることがなく、よく分かりません。現在、練習している「白鳥」が含まれる曲がどのように誕生したのか知りいところですが、サン=サーンスについては日本語の資料が大変少なく、想像で補うほかはありませんでした。

サン=サーンスと「動物の謝肉祭」
さて、「動物の謝肉祭」はウィットの効いた洒落た曲、あるいは皮肉に満ちた曲として知られます。サン=サーンスは、この曲の前後には、ヴァイオリン協奏曲第3番(1880年)、ヴァイオリン・ソナタ第1番(1885年)を、「謝肉祭」と同年の1886年には交響曲第3番(オルガン)も作曲しています。充実した創作活動を展開していたように思えます。

しかし、実はその頃、ワーグナーについての発言がもとで、サン=サーンスの作品が上演中止されるという状況になっていました。失意のサン=サーンスは、活動が可能だった都市のひとつ、プラハでの演奏後、オーストリア・ハンガリー帝国のクルディム(現在のチェコ共和国 Chrudimか)に到着します。
そこで知人のチェリスト、シャルル・ルブークCharles Joseph Lebouc(1822-1893)が主催する私的な演奏会(非公開)のために作曲をしたのが「動物の謝肉祭」でした。この時、初めて作曲を開始したのか、事前に依頼を受けて総譜を持参したのかは分かりません。いずれにせよ、気心の知れた音楽家の身内だけの音楽会ということもあってか、サン=サーンスらしい、短くも毒のある作品ができあがったのはご存知のとおりです。
しかし、一回りも上の先輩であるルブークにはメインでチェロを弾いてもらうわけですから、サン=サーンスはパロディではなく飛び切り美しい旋律を捧げました。

多分、こうだったのではないかと思われます。
手元の資料を繋ぎ合わせるとこのようになりました。タイムラインも大雑把、それぞれの関係性なども不明確なのですが、私の力ではこれが限界です。
ともかく、このような流れで、1886年3月9日、動物の謝肉祭は初演されました。ピアノの1台は作曲者自身、チェロは、もちろん、ルブークです。初演と言うよりは、仲間内だけの試演に近いもの、あるいは楽興の時のようなものだったのではないでしょうか。

編成 ピッコロ1、フルート1、クラリネット1、ピアノ2、弦5部〔バイオリン2、ビオラ1、チェロ1、コントラバス1〕、アルモニカ (グラス・アルモニカ。通常、チェレスタ又はグロッケンで代用)1、木琴1.

残る疑問
しかし、疑問がたくさんあります。
その最大のものは、なぜ、生前、この曲の出版を許可しなかったのかという謎でしょう(「白鳥」は初演の翌年には出版されています)。他の作曲者の作品が多く取り入れられパロディ化されていることが気がかりだったというのは大いにあるかも知れません(ベルヌ条約は1886年成立、翌年発効)。また、なぜ「動物の謝肉祭」(正式には、Le Carnaval des Animaux, Grande Fantaisie Zoologique〔動物の謝肉祭:動物学的大幻想曲〕)という、取ってつけたような大袈裟なタイトルなのでしょうか。
ルブークとサン=サーンスの関係もよく分かりません。音楽院つながりなのか単なる知り合いか、同志的連帯なのか。ルブークが傷心のサン=サーンスを慰労したのか単なるゲストなのか。また、ルブークはどうしてクルディムにいたのか。などなど疑問は後を絶ちません。
また、汽車好きの私としては、サン=サーンスがクルディムに来た交通手段に興味を惹かれます。当時、敷設され始めた鉄道利用だったと思いますが、確認していません。サン=サーンスの旅行好きは知られたところですが。

このように、具体的にどうだったのかを調べると分からないことだらけです。フランス語の文献をスラスラと読めればいいのですが、そうなるためには私には50年が必要です(笑)。
それはともかく、「白鳥」が生み出されるためにはルブークの存在が欠かせなかったことは明白です。チェロを学ぶ者にとって、恩人と呼んでもおかしくない人だったのですね。

サン=サーンスと「白鳥」。これからも折を見て調べてみたいテーマです。


YouTubeの動物の謝肉祭(オメガ・アンサンブルによるナレーション付きの演奏、シドニー、2014年)
Saint Saëns - Carnival of the Animals


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