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ねえさん、ねえさん、どこ行くの ー 母の教えてくれた歌 2

2022年10月10日 | 音楽で考えた
旋律について
『一かけ二かけて』は、他の多くのわらべ歌と同様に譜例1のように付点8分音符と16分音符のセットで表現されることが多いようです。いわゆる「ピョンコ節」(『鉄道唱歌』のようにタンタ・タンタのリズムが続く歌)です。

譜例1
 


ですが、私の記憶ではこのように鋭いリズムではないので、文献3を参考に三連符で表現したのが譜例2です。表記が鬱陶しいですが、私の聞いた旋律はこのリズムに近かったと思います。ただし、わらべ歌ですから、一律ではなく微妙な異同があるように思います。歌詞によっては、♪♪のようになる箇所もあると思います。

歌詞は、私が記憶している歌詞を記載しました。
最後の歌詞は略しました実際には無かったのかも知れませんし、カデンツァのようにアドリブだったのかも知れません。
復元にはいろいろと苦労しましたが、メロディーは『一番はじめは一宮』とほぼ同じでした。

譜例2



『一かけ二かけて』誕生の謎
『一かけ二かけ(て)』はいつ、どのように生まれ、どのように広がっていったのでしょうか。最も興味が湧くところですが、これはかなり難問です。

文献1『日本のわらべうた;室内遊戯歌編』の『一かけ二かけて』の説明に、「(前略)この旋律のもとは、明治17年(1884)ごろ、陸軍の軍楽隊の指導をしていたフランス人、ルルーにより作曲された『抜刀隊』で、その旋律がかわって〈はやりうた〉の「ラッパぶし」や「ああ夢の世や」などとなり、それをされに子どもたちが〈手まりうた〉や〈手合わせうた〉に替え、広くうたわれるようになったもの」(p.74)とあります。

また、ウィキペディアによれば、『抜刀隊』は、西南戦争で活躍した官軍の抜刀隊を讃えて、外山正一(1848-1900)の詞に、陸軍音楽隊を指導していたお雇い外国人のシャルル・ルルー(Charles Edouard Gabriel Leroux、1851-1926)が作曲、明治18年(1885)に鹿鳴館で発表されたとされます。また、同じウィキペディアの「陸軍分列行進曲」のその他の項には、「『抜刀隊』のメロディは広く知られ、次第に歌い崩されて他の曲とな」ったとあり、『ノルマントン号沈没の歌』等が挙げられています。


しかし、『抜刀隊』を聴いても、これが『一かけ二かけて』につながるメロディーだとは俄かに信じられません。西南戦争の8年後に披露された曲が、いかに流行ったとは言え、明治時代の日本国民の間に浸透し、わらべ歌バージョンまでできたとは思えません。しかも、わらべ歌では歌詞の内容が賊軍の大将に同情的で、捻じれ現象を起こしています。

それでは一体どうなっていたのでしょうか。文献1の説明に挙がっている曲、ウィキペディアに挙げられた「他の曲」を確認する必要がありそうです。


(参考サイト)
ピョンコ節(ウィキペディア)
抜刀隊(軍歌)(ウィキペディア)
陸軍分列行進曲(ウィキペディア)
軍歌 抜刀隊(YouTube)陸軍戸山学校軍楽隊(SP音源)
外山正一(ウィキペディア) 
シャルル・ルルー(ウィキペディア)

(主な参考文献)
1 尾原昭夫編著『日本のわらべうた;室内遊戯歌編』文元社、2009年12月刊.
2 町田嘉章、浅野建二編『わらべうた;日本の伝承童謡』(岩波文庫)1973年9月刊.
3 三井徹、高比良望「音楽界が他者視してきたピョンコ節」金沢大学教育学部紀要.人文・社会科学編 51, p. 27-36. (2002)[金沢大学学術情報リポジトリKURA収録コンテンツ]
4 野村光一著『お雇い外国人⑩音楽』鹿島研究所出版会、1971年2月刊.
 
(つづく)


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