原発爆発で福島県から横浜市に自主避難していた子どもがいじめを受けていたというニュースが大きく報じられている。
小学1年生で福島から横浜へ移り住み、小中学校でずっといじめられていたという。
子どもの文字の手記が、いかにも痛々しい。どんなにつらかったか。
ただ、気になるのは、いじめの原因が原発事故に起因することが強調されている点だ。
放射線被ばくへの無理解が原因なのだ、とばかりに。
このニュースに接して、原発の避難者と戦争の難民がかぶる。どちらも行く先で差別を受けている。
今晩のNHKラジオ19時ニュース。トップで横浜のいじめを扱ったあと、アメリカでは難民を排斥しようと叫ぶ下品な不動産屋が国のトップになってから難民や黒人への差別機運が高まっていると報じていた。
原発事故の避難民でも、戦争の難民でも、よそ者がいじめの対象になっていく構図は同じだ。
親は、転校、しかも原発事故による転校がいじめの原因になることには、考えが及ばなかったのだろうか。
そもそも、自主避難は文字通り、自分の判断による行動だ。子どものいじめの事実を把握した時点でいじめ加害者や学校への批判ばかりでなく、自分への批判はなかったのだろうか。
原発事故の直後の混乱期ならばいざ知らず、5年以上が経過し、県民が安全に生活している福島での暮らしを拒み続けている自分が、いじめ発生の一因ではないかという自問はなかったのだろうか。
もちろん、いじめをしていた児童や学校は直接的な加害者だ。ただ、いじめを受けていた子どもの親が原発被害者意識ばかりで「自主」避難を続けていたのならば間接的な加害者ではないだろうか。
関連する話として「自主避難者」への支援について。
あれからもう5年半以上の時間が流れた。「強制避難」の人々は、ふるさとに帰る希望を捨てずその日のための準備をしたり、また、ふるさと帰還をあきらめて新たな道を歩み始めた人もいる。
一方、「強制避難」ではない「自主避難」の人は、そもそも「自主的判断」で福島での暮らしを拒んでいるのだ。もう5年半以上が経過し、さらに行政からの補助を求めるのは、どう考えても「過剰な要求」だと思う。
原発事故関連の補償のために被災地以外の全国の税金が投入されている。「強制避難」の人への補助はもちろん必要。「自主的」な人の生活費まで、まだ他地域の人の税金をあてにしようというのはどうか。
「あの事故から立ち直って、自分で暮らしを築いていこう」。5年間福島県に住み続けてきた人は、みな考えている。
ともかく、横浜の福島っこが、死を選択しなかったことがうれしい。そして誇らしい。
「震災でたくさん死んだからぼくは生きる」。これは、死に準ずるような困難を経験した人間だからこそ言いきれる、誇り高い人間の「決意表明」ではないだろうか。
福島の一員として、君が誇らしい。
福島で復興を目指す者の一人として、勇気をいただきました。
君に勇気をもらった福島の人はたくさんいるはずです。名前は知らないけれど、ありがとう。