マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
26.聖テレジアの見た地獄
聖テレジアはある日非常に精神的に楽しみを感じていたら、み主が御現われになってもしテレジァが今までどおりよく天主につかえ、よく天主を愛するならば、永遠の幸福を得うるる保証をされ、なお一層罪の憎むべきこと、及地獄の罰の恐るべき事を感じさせるために、地獄の光景を目のあたりに見せしあられた。
「ある日のこと、自分は祈祷の最中、わずかの間肉身と霊魂と共に地獄に落されていた。自分が行を改めず、罪を犯して死んだならば、悪魔が準備した所へ行かねばならぬことを天主がお見せ下さるのであるとわかった。
それは如くわずかの時間であったが、その記憶は何年たっても決して忘れることが出来ぬ。この地獄の入口はきわめて底くて、暗く、狭いカマドの如くに見えた、又地面は不潔きわまる泥檸で、悪臭鼻もつき一面に満ちていた。端の方に障壁がもうけられ、その中に狭い通路があって、そこから自分は幽閉されたのである。
そこで受けた苦しみを、少しなりとも人に想像せしむるにはどんな言葉を以って言い表わしてよいか知らない。言葉がないから、その性質を示すことが出来ないが、自分の霊魂は火の中へ投ぜられ、同時に肉身は耐えがたい苦しみにおそわるように感じた。最も耐えがたかったのは、その苦しみが永遠であって柔らげられるあてがなかったことである。肉身の苦しみは霊魂の苦しみに比較すれば、まだまだ楽である。霊魂の苦しみに至っては、実にひどく嘆き悲しみ、痛心の極で、同時に非常な失望と悲哀とを感じ、到底云い表わすことは出来ない。よしんば耐えず死の苦しみにあうことに例うるものもない。要するに苦しみ及び罰の骨頂とも云うべき、この火の苦しみ及失望を想像せしむることは、到底出来ないのである。これは自分が押込められた壁の中の狭いところで受けた苦しみである。
全くこの壁の中へはいると、呼吸は切迫し、灯はなく到るところ闇黒でさながら不思儀にも何等の光なしに、すべて悲惨な光景が眼に見えるのである。天主はこれ以上、自分に地獄に関する知識を御与えなさらなかった。
その後、罪科に対するより一層恐い罰を御示し下されたが、自分は直接その苦痛を受けなかったので、この刑罰に対しては、左程恐怖の念が起らなかった、慈しみ深き天主が、自分をいかなる苦より御救い下さるかという事を、直接見せて下さる事がわかった。
この地獄を見てからすでに六年になるが、ここにその当時の有様を書きつ、、今なおその恐怖のために、内臓の血液が凍るように感ずるのである。又顛難辛苦に出会うと、当時の記憶が思い出され、何事も耐え得る事が出来るのである。
「ああ、尊き、御主イエズス・キリスト、願わくば永遠に祝せられ給え、御身が我を愛し給うは、我れ自らを愛するよりも一層深きことを示めし給うたからであります。私はもし御恵をこうむらずんば、幾度地獄へ陥いらんとしたでありましょうそ。私は地獄に行って幾多の霊魂が亡びゆくのを見てから、私は云いしれぬ苦痛を感ずるに至った。又同時に救霊のため、尽くさんとの激しい望みが起り、たとえ一人の霊魂を救うために、千度自分の生命を犠性にしてもいとわぬ覚悟がそなわったように感じるのである云云」とテレジアは語った。
以上彼女が述べたところであるが、天主がテレジアに御示しなされたのは地獄の光景のほんの一部に過ぎないのである。地獄に於ては、火と暗黒との外に又、大いなる苦しみをも受ける。
それは即ち天主を捨てたために、天主に捨てられた罪人は、多くの方法を以って悪を行った五感は罪を犯す道具となったから、罪と離る可からざる関係があるによって、罰せられるのは、当然である。
これは聖書にも「各々罪に応じて罰せらる」と示されている。罪人は火と相当の暗黒とに投げ入れられるので悔い改あも出来ず、失望に終って歯切しりをする。イエズスはこれについて「そこになげきと歯噛みとあらん」(マテオ八~一二)とのたまう。