写真は20年以上も前のものとなりました

つれづれなるまゝに日ぐらしPCに向かひて心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつづっていきます

モラトリアム(執行猶予)

2020年01月03日 | 随想

いただいた年賀状の中に、今年も「新年の挨拶を今年で終わりにしたい」という、いわゆる「終活年賀状」を何通かいただいた。

寄る年波を感じるに至り・・・」とあれば、「むべなるかな・・・」と思わざるを得ない人もいらっしゃれば、「まぁだそんなお年ではないでしょうに・・・」と思うような人もいて、まぁ、あちらさんのご都合なんだから、「そうですか(-_-)・・・」と押さえておくしかないだろうて。

 

ネット検索してみれば、40歳代でも「面倒だから」とか、「ネットで済ますから」とかの理由で、「年賀状じまい」をする人たちも増えているのだそうだが、さすがにこの年齢層には「終活」などという言葉は使えそうにないので違った呼び方をしているようである。

 

そんな中、元気で活躍中の喜寿の方からの年賀状で、新年の賀詞に続いて、「人生に余生なんてありません 全て本生です」との自筆の達筆な文字があった。

「本生」は流れからいけば読み方は「ほんせい」だろう。「ほんなま」と読めばビールになっちゃう・・・。

「余生」が「余った人生」なら、そんなものはないとして全てを「本当の人生」とみなすから「本生」となるのだろう。生きることへの姿勢の違いなんだろぅな。

まだまだ若いと思うような人が「寄る年波」を感じているのと対照的に、この方は年齢を肥やしにして更に活躍していこうとされているのだから頭が下がる。

 

あんたなぁ、人の人生に“余った人生”なんて、ないんだよ!」と、まぁ少し脚色を加えたが、「お子さんたちも大きくなられたんだから、余生を大切に楽しんでくださいよ」という慰めの言葉への、これは意地を通した姿勢の表れだろう。ソースは「ちょっといい話 余生」である。

 

心意気としては上記のとおりなのかもしれないが、実際問題としては、「余生」を「人生の終わりを待つまでの期間」として、それをモラトリアム(執行猶予)と表現しているのが、一般社団法人東京23区研究所(こんなんもあるんだなぁ。まぁ天下り団体の1つなんだろうけど。)の池田所長が執筆しているサイト

年老いた夫婦が、やがて配偶者の死によってひとり暮らしを余儀なくされ、独居老人となって人生の終わりを待つまでの期間をモラトリアム(執行猶予)だと喝破している。

また、人生80年時代ともなれば、長すぎる執行猶予期間にもなって、それは不幸ばかりを増す結果に終わりかねない、と警鐘を鳴らしている。現実は残酷なんだ。

実態として、資金や住居、家族、その他いろいろな課題があるのだろうが、どうなんだろう、当事者たちは案外、それらを諦めきってサラリと流して生きていたりしているのではないだろうか?老後は悲惨という一方的な見方だけではないような気がしているのだが。

 

突然キレる「凶暴老人」が急増しているようだが、原因が前頭葉の機能低下なのか、あるいは社会的な孤立なのか、まぁいろいろあるんだろうが、みっともねぇ姿だよなぁ。もっと、ちゃんとしろよ、と思っていたときに、「老人の美学」という本があったので購入してみた。

また、定年退職した後にもとの職場にしょっちゅう電話したり、出向いたりして迷惑がられているという老人問題も深刻化してきているようで、お-っと、これは少々身に覚えがある者として自重すべきだろう、という反省の意も込めて、日頃の信念を確認すべく、「老人の美学」という書を読んでみることとした。

カバーの帯には「年寄嗤うな、明日の自分。」とある。

ここで「笑う」ではなくて「嗤う」という字が使われていることが問題なのであり、「嗤う」とはWeblioによると「ばかにした気持ちを顔に表す。あざける。嘲笑する。」とある。

総画数13画の、この「」という字の書き順は次の通りとなっている。

 

子供叱るな来た道だもの、年寄り笑うな行く道だもの」という諺というか、言い回しがあり、モタモタしている老人を舌打ちしたり毛嫌いしたりバカにしたりするな、いずれは誰しもトシ行くんだからという戒めの言葉なのだが、どちらかと言うと、日本全国にはびこる、こういう『「嗤う」という風潮』がいけない。

 

笑いについては、以前、スマイル(2018年2月12日)のところで、英語の「笑う」という状態の、多くの単語(10数種類もある!)を紹介していたが、要するに、老人だけにではないが、老若男女を問わず、人に接するには今風の言葉でいえばリスペクト、つまり敬意を払いつつ和顔施(わがんせ)で臨むことが日本人の生きる知恵だったはずである。

 

年齢を問わず、すぐにキレるような、みっともない人間にならないためには、年齢に関係なく、穏やかな気持ちを持ち続けることが大事であり、突発的な怒りに際してはアンガーマネジメント、つまり「怒りという感情の制御」を心得ておくとおかぬとでは、一瞬のことでそのあとの状況も大いに違ってくるものだ。

怒りそのものよりも、その扱い方のほうがより重要な訳であり、そのあたりについては「御怒(ぎょど)、とか・・・(2015年3月22日) 」などもご参考に。

あわせて、「自分の機嫌くらい自分でとりなさい(2018年1月20日) 」という心構えもしっかりしておれば、トシはとっても鼻摘まみとはならず、「好好爺(こうこうや)」として気ままに過ごせるのではないか、などと・・・、ぅん。ゎからん。