キリスト教は言うに及ばず、仏教も同じなのだが、宗教というものに対しては抵抗感というか嫌悪感みたいなものが激しい。
でも、そのくせ結構、非常に興味があったりもする。
それは、しかし歴史的・文化的といった知的好奇心の対象と見ているからであって、信じるとか信仰するといった部類からのものではない。断じて、ない。
信心している人たちの心境というものが、はっきり言ってわからない。というか、心のどこかでそういう人たちを蔑んでいるような気がしないでもない。「本気でそう思ってんの?」「そんなこと本当に信じてんの?」などというのが本音である。
と言いつつも、結構、宗教的な生活や風習に染まっているのだろう、といううっすらとした自覚というか観測のようなものは持ち合わせているようだ。
あるいは、もっと染まっていきたいという願望もどこかにあるのかもしれないが、ん~、このあたりの心境というか気持ちというのは複雑怪奇だ。我がことながらさっぱりわからぬ。
とにかく、お通夜とかで坊主の法話を聞いたりすると、「それは違うだーろー-!」という反発ばかりを覚える。仏教に興味があるというよりも、そういう法話への反論を懸命に探求しているのかもしれない。
思えば、このブログを始めた当初にも「釈迦と世尊」(2013年6月20日)のところで、「(仏教というものは)漢訳という点で疑問を持っていることに加え、教義そのものにもいろいろと疑問を持っている」と疑問を曝け出していたし、「犀の角(さいのつの)」や「犀の角(続)」では仏典そのものにも疑念を持たざるを得ない旨を指摘していた。
また、偽経(偽物のお経)とされている「盂蘭盆経(2015年8月9日)」がもてはやされていたりすることに相当の違和感を感じてきた訳だが、個人的にはそういう遍歴を経て、死生観としては「還る(2014年7月27日)」にまとめてみた(人の「死」とは、(人体を構成する原子等が)元の「宇宙」という場所に還るだけのこと)ところであり、「生命体とは「淀み」(2015年4月29日)」(「生きている」という状態はいっときの「淀み」)という見方をしているものである。
客観的な「死」と、それが身近な人や動物とかに訪れた際の弔意や哀悼の念とは分けて論じる必要があり、一緒くたに捉えようとするところに「宗教」というものが登場してくる土台が整うこととなる。
最近では下記の2冊からもいろんな興味深い知識を得た。多くの新しい発見があったが、このことについては後日、採り上げたい。
ところで、致知出版社のメルマガをいくつか購読しているのだが、たまたま「BOOKメルマガ」と「偉人メルマガ」が同じ日に同じテーマで送られてきた。それが「死ぬときに後悔すること25」という書籍の内容紹介。
副題が「後悔しない人生を歩むためのヒント」というものであるが、「あぁ、もぅ50年早く読みたかった....」などと後悔させまくる本であったりもする。
この本に限らず、「後悔しない人生」とググってみると、まぁ、あるわあるわ、約 25,900,000 件がヒットするようである。そんな中、よくぞ出版するという選択ができたなぁ、とあきれるばかりだが、思うに、ほとんどは同じような内容なのではないか?・・・・などと、こちらのほうに余計に驚いたりあきれたりするだけの話ではある。それだけ「永遠のテーマ」ということでもあろう。
ネット上でも、死ぬ前に後悔したくない20のこととか、看護師が語った、死の直前に誰もが口にする「後悔のことば」など多くのサイトがあるようだが、「臨死体験」でググると118万ほどのサイトがヒットするようだ。
臨死体験者150人による、「死の1秒前」というサイトでは、臨死体験者は臨死状態から生還にいたるまでまで14の過程を踏むと紹介されており、このうち、我が臨死体験で記憶しているのは1番の「自分の死の宣告が聞こえる」くらいだろうか。実際、男性医師が大きな声で「死んだぁーっ」と傍らで叫んでいたのを覚えている。まぁ、このときは、「脳死」まではいっていなかった、ということなのだろう。
11番目に『「光の存在」と出会う』というのがあり、「存在」という表現が如何にも胡散臭く感じられたりするのだが、周り中がすごく明るい光に満ちあふれていたという感覚は確かにあった、という記憶がある。
目は瞑ったままだったので病院の照明ではないが、そんな程度の明るさどころではなく、もっともっと強力な眩しさのある明るさであり、しかも白っぽい光だった。黄金の光、とかではなかった….
「臨死体験に共通した10の要素」でも10番目に「光のトンネル」というものがあり、臨死体験の42%の報告があるとのことだが、我が体験では「トンネル」ではなかった。
周り中が強烈に明るく、しかも周りには何も無く、全くの光の中だった。
「死後の世界を見たという人に共通する9つの臨死体験ストーリー」では最初に「光を見る」と出てくるが、我が体験では「光を見る」というより、自分が「光の中にいる」という感じだった。
「3.守護天使に導かれる」とか「4.母親が訪ねてきてくれる」、「5.ご先祖様と出会う」という点に関しては、他人様の体験にケチを付ける訳ではないが、それ、潜在意識のレベルまで学習した宗教のお陰でしょう?としか思われない。
それで思い出したのだが、幼少の頃、近所で、「生き返ったという老婆」の話があった。
そのババァが言うことには、「地獄の入り口で青鬼と赤鬼に手をつないでもらって閻魔様のところへ行くところだった」とのこと。聞いたときの年齢は定かではないが、「おぃおぃ、このババァ、寺の教えをそのまま頭に叩き込んでいたんだろぅなぁ」「しっかし、まぁ、寺っちゅうのは何ちゅう罪つくりなことをすり込む場所なんじゃ。」「仏教とかお寺ってのは人をだまくらかすところだったんだな」ということを子供心に思っていた、ということを思い出してしまった。
また、「死ぬ瞬間はこんな感じです。死ぬのはこんなに怖い」というサイトにも、「光」が出てくる。
「臨死体験者の70%が恐怖を感じず、むしろ安らぎを覚えたと語っている。」との報告があったという記載があるが、これはわが体験とも合致する。
医者が「死んだーっ」っと叫んでいるのが聞こえたとき、「うっそー、オレが死ぬの?まだ早すぎだろ?」と思ってたし、すぐに、「あぁ、これで死ぬのか、あっけないもんなんだなぁ。」と思っていたことも思い出した。ぅん、極めておだやかだった。
他の書では死の直前に、恐怖で半狂乱になる人も多くいるという報告もある。たぶん、そういう人たちは、誤った宗教の教えから来る間違った認識をもっているからなのだろう。
オウム真理教で学歴の高い若きエリートたちが多くかぶれていったのも、「死」というものを真正面から見せられて、カルチャーショックどころではない強烈なインパクトのある刷り込みをされたからだろうと思われる。
「死」というものを、きちんとした世界観とエビデンス(科学的根拠)に基づいて、きちんと教えておく必要がある、と思わずにはいられない。
配偶者からは「(三途の)川は見えた? 船頭さんに声かけられた? 何故、乗らなかったの?」などと、冗談なのか本気なのかわからない質問もされたが、まぁ、還ってきたからこそ聞けることなので、「よし」としておくしかあるまいて。
臨死体験をしたからといって、それが本当の「死」と同じとはかぎらないし、だいたい、「医者の叫びが聞こえた」ということ自体、まだ生きていたということに他ならない。いずれはほんとうに死ぬ。
死ぬまでは生きているので、「生きる、死ぬってなんだろう?読めば「心が軽くなる」ブッダの教え3選」などを身につけておいても害になることはないだろう。
仏教の教えに学ぶ!人生を変える「6つの知恵」では、なんと「無財の七施」が出てくる(原文では出てこないので訳者の思い入れかも)が、これ、最も気に入っている言葉のひとつで、幸せな偶然(2015年11月8日)や笑顔でいること(2013年8月30日)でも採り上げているので、よろしかったらご一読を。
復活といえばイエス・キリスト、イエス・キリストと言えば「復活」ということなのだが、その誕生と、クリスマスが冬至の時期ということで太陽が勢いづく、太陽光の復活ということで関連づけられているらしい、というくらいにとどめておく。
つまり、クリスマスというのは「イエス・キリストの誕生日」ではなく、「イエス・キリストの降誕を記念する祭日」ということである。
復活そのものを祝う復活祭(イースター)は、「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日」なのだそうである。ややこしいにはそれなりの理由があるのだろう。