東洋経済オンライン (西村 豪太 : 東洋経済 コラムニスト)
2024年8月6日
鄧小平氏による君津製鉄所の視察が日中鉄鋼協力の原点だ(写真:アフロ)
鉄は国家なり、という。その言葉のとおり、半世紀近く続いた日中製鉄業界の絆は終焉に際しても政治の影を強く感じさせた。日本製鉄は7月23日、中国の宝山鋼鉄(宝鋼)との自動車用鋼板の合弁を8月に解消すると発表した。設立から20年の節目を迎え、すべての持ち株を宝鋼側に譲渡する。日鉄の中国での看板事業が終わりを迎えた。
日産自動車やホンダが現地の生産能力の削減に踏み込むなど、中国では日系自動車メーカーによる事業の縮小が続いている。三菱自動車はすでに中国から撤退した。EV(電気自動車)の普及と現地の完成車メーカーの台頭という状況下で、中国での自動車用鋼板のビジネスに見切りをつけるのは自然な選択に見える。
ただ、目先の需要動向だけで決めたわけではあるまい。同社の経営陣はかねて「中国市場の存在を前提にせずビジネスを考えろ」と社内に指示していたという。
中国では現地メーカーの過剰生産で鋼材価格の下落が止まらず、改善を展望しにくい。また最近の日鉄は米国とインドに経営資源を集中させつつあり、それに伴う地政学的な判断も働いていよう。
改革開放とともに船出
日鉄と宝鋼の関係は日中経済協力の象徴だったのみならず、外資の導入や市場経済への移行を進めた「改革開放政策」の起点だった。
宝鋼の源流である上海宝山製鉄所が着工されたのは1978年12月23日。中国共産党の「第11期三中全会」が改革開放政策の始まりを告げる歴史的決議とともに閉幕した、まさに翌日だった。三中全会とは、党中央委員会(5年ごとに選出される意思決定機関)の3回目の全体会議のこと。中でも78年の三中全会は、文化大革命の混乱を終わらせ経済発展に舵を切った一大画期だった。
当時の最高実力者だった鄧小平氏はその2カ月前に来日し、日鉄の前身である新日本製鉄の君津製鉄所などを視察した。日本に学びたいという中国側の熱意に新日鉄は積極的に応じ、日本側からは延べ1万人が訪中して秘蔵の技術とノウハウを中国に移植した。
その熱気を生んだのは、中国の「改革」がもたらす果実への期待だった。日中戦争が終わって、まだ30年余り。中国への贖罪(しょくざい)意識に加え、中国の経済発展はいずれ日本企業の利益になるという思いが強かった。その願いは、2001年に中国がWTO(世界貿易機関)に加盟してからの爆発的な経済成長で報われた。バブル崩壊後の苦境を、中国需要によってしのいだ日本企業は多かったはずだ。
今や世界一の規模に育った中国の自動車市場はその最たるものだ。前出の合弁は巨大需要を刈り取らせるため、中国政府が持ちかけた。中国の市場と日本の技術の組み合わせは強力で、自動車用鋼板の合弁は05年3月の稼働からわずか2年半で累損を解消した。
パートナーから競争者へ
だが、蜜月は続かない。質・量ともに宝鋼が成長するにつれ、両者の間に隙間風が吹く。21年に日鉄が電磁鋼板の技術をめぐる特許権侵害で宝鋼を訴えたことは、両者がパートナーではなく競争者に変じたことを強く印象づけた。
合弁解消の5日前には、習近平政権の下で3度目となる「第20期三中全会」が閉幕した。今回の決議でも「改革」は強調されたが、その目標は「中国式現代化」の実現だ。米国との対立を勝ち抜くための自立自強の体制づくりが打ち出され、これまでの成長を支えた経済面の改革は後景にかすんだ。2つの三中全会の違いを見るにつけ、日鉄・宝鋼の関係が終焉したのは必然だと感じる。
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・グリーン経済化への流れの中,鉄鋼業界も森林の戦力化やその一環となるバイオ燃料を,重要課題として注目。
・多軸多関節なロボットによる林業運搬ネットワークや建設土工機械,高機能鉄鋼を組み込んだロボティクスに期待。
重要となるTTT曲線の均一核生成モデルでの方程式の解析をMathCADで行い、熱力学と速度論の関数接合論による結果と理論式と比べn=2~3あたりが精度的にもよいとしたところなんかがとても参考になりましたね